上田城は、長野県上田市二の丸(旧・信濃国小県郡上田)に築かれた平城で、戦国時代の名将・真田昌幸によって天正11年(1583年)に築城が開始されました。現在残る本丸の櫓(南櫓、北櫓、西櫓)は、江戸時代初期の寛永年間(1626年以降)に仙石忠政が再建築したものです。
上田盆地の北部、千曲川の分流である尼ヶ淵に面する要地に位置し、南には千曲川、北には太郎山が望めます。城の南側は断崖を利用し、北西・北側には矢出沢川、東側は蛭沢川や湿地帯を取り込み総構えの防備を築きました。当初は小泉氏の古城館があった場所(小泉曲輪)で、築城時には「尼ヶ淵城」とも呼ばれました。
真田昌幸が拠点を真田氏館(真田本城)から移し、1585年頃には本格的に上田城に移りました。天正壬午の乱後、武田氏没落後の信濃をめぐる勢力争いにおいて、昌幸は徳川家康に臣従しますが、後に対立。1585年の第一次上田合戦では徳川軍を撃退し、1600年の関ヶ原の戦いに合わせた第二次上田合戦でも徳川秀忠軍を足止めしました。
関ヶ原の合戦後、昌幸・信繁父子は九度山(和歌山県)に配流され、1601年(慶長6年)に上田城は破却・堀埋めの憂き目に遭いました。城の建物は壊され、堀は埋められ、城は一時その姿を消します。
元和8年(1622年)に仙石忠政が入封すると、寛永3年(1626年)より城郭の再建が開始されました。本丸には櫓7棟、櫓門2棟、それらを繋ぐ塀が築かれ、黒色の下見板張り外観を持つ迫力ある櫓が姿を現しました。しかし、忠政の死(寛永5年・1628年)により工事は中断。以後は未完のまま幕末を迎えています。
明治時代に多くの建造物は払い下げや移築で失われ、西櫓(県宝)は唯一残る建物となりました。昭和期には移築されていた南櫓・北櫓が城内に戻され、平成6年(1994年)には東虎口櫓門や塀が木造復元されました。現在、旧二の丸は上田城跡公園として整備され、市民の憩いと歴史探訪の場となっています。
毎年4月上旬、千本桜が満開となると「上田城千本桜まつり」が開催され、多くの市民や観光客で賑わいます。夜間にはライトアップが行われ、日本夜景遺産にも認定される美しい夜桜が楽しめます。
本丸跡地に鎮座する真田神社は、「落ちない城」にあやかり、受験生や勝負事の祈願で人気です。境内の古井戸は伝説の「抜け穴」として語り継がれています。
敷地内には上田市民会館(2014年閉館跡)、野球場、上田市立博物館、招魂社などが配置されています。また、三の丸跡には松平氏時代の門と堀が残り、現在は上田高校の正門として使われています。
北陸新幹線・しなの鉄道線・上田電鉄別所線の各線が乗り入れる上田駅から徒歩約10分でアクセス可能。入場料は大人250円、大学・高校生180円、中小学生60円で、ライトアップは22時まで楽しめます。
上田城は、その堅固な防御構造と戦国期の白熱した合戦の舞台として、日本の城郭史に燦然と輝く存在です。歴史ロマンと四季折々の風景、そして現代の公園としての憩いを同時に味わえるスポットとして、多くの人々を魅了し続けています。