村上義清と葛尾城の盛衰
戦国時代、村上義清は信濃の小県郡を本拠とし、甲斐の武田晴信(後の武田信玄)による信濃侵攻に対抗しました。天文17年(1548年)の上田原の戦い、翌年の砥石崩れで村上氏は二度にわたって武田軍を撃退し、実力を世に知らしめました。
しかし天文22年(1553年)、義清の後背を支えていた支族の屋代氏・雨宮氏・塩崎氏らが、武田方に寝返り、真田幸隆の働きかけにより離反します。これにより、葛尾城は北方からの挟撃を受けて自落に追い込まれました。この戦いは「葛尾城の戦い」として知られ、義清は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びます。これがのちに有名な「川中島の戦い」へとつながる発端となったのです。
千曲川の大洪水と落城
葛尾城の落城と同年、千曲川では大洪水が発生したと伝えられています。この川は江戸時代までに64回もの洪水が記録されており、平均すると4〜5年に1度の割合で氾濫していたといわれています。洪水が戦況に与えた影響についての記録は明確ではありませんが、城の防備や退路に少なからず影響を及ぼした可能性があります。
その後の葛尾城と村上義清の運命
葛尾城は一時的に奪還されたものの、村上義清が再び城主として返り咲くことはありませんでした。地域の武士たちは情勢に応じて武田方・村上方・上杉方と、主君をたびたび変えていく混乱の時代となります。
義清は上杉謙信の庇護のもと、永禄8年(1565年)に信越国境の根知城を拝領し、信越国境警備の任に就きました。そして元亀3年(1572年)にその生涯を閉じたと伝えられています。
関ヶ原の戦いと葛尾城の最終局面
慶長5年(1600年)、徳川秀忠は関ヶ原の戦いへ向かう途上、小諸城を拠点としながら上田城攻めを敢行しました。このとき、海津城将・森忠政の命により、葛尾城や地蔵峠には城代・井戸宇右衛門の配下の兵が配置され、上田城の動向を監視していました。
これに対し、真田信繁(幸村)が9月18日と23日の2度にわたり出撃し、葛尾城に対して夜討ちと朝駆けの攻撃を行いました。これが記録に残る葛尾城の最後の戦闘とされています。宇右衛門は森忠政と不仲であったため、門を開けて真田軍を城内に引き入れられ、二の丸まで攻め込まれたといわれています。
葛尾城の遺構と関連遺跡
登城口と居館跡
葛尾城の登城口付近には、現在もかつての山城の面影が残っています。平時の居館跡には、満泉寺が建立されており、この寺は村上義清の子・村上国清(山浦景国)が、天正10年(1582年)に上杉景勝の領有時代に建立したものです。
村上義清の墓
満泉寺の近隣には、村上義清の墓所も存在しており、戦国の動乱を生きた武将の足跡を偲ぶことができます。
伝説「笄(こうがい)の渡し」
哀しき落城と奥方の物語
葛尾城が落城する際、村上義清の奥方は義清と別れ、千曲川を渡って落ち延びることとなりました。対岸の力石に向かう途中、船を出してくれた船頭に感謝の意を込めて、奥方は自らの髪にさしていた笄(こうがい)を手渡したという伝説が残されています。
伝説の真偽と歴史的考察
この「笄の渡し」はロマンあふれる話として語り継がれていますが、当時の風習から考えると疑問も残ります。江戸時代以前の女性は高く髪を結う習慣がなく、また船での渡しよりも川を歩いて渡ることが一般的であったとされるため、この話は江戸時代以降に創作された可能性も指摘されています。
奥方のその後についても、無事に越後へ逃れたという説や、敵に発見されて自害した、あるいは捕らえられて殺害されたなど諸説が存在しています。さらには、船頭が落人の弱みにつけ込み法外な金銭を要求したという異なる筋書きも伝えられています。
なお、奥方は「於フ子」と呼ばれ、高梨氏の娘であったとも、村上義清の側室であったとも言われています。
おわりに
葛尾城は、戦国時代における信濃の激しい領土争いと武将たちの栄枯盛衰を物語る貴重な遺構です。現在もその痕跡は坂城町の山々に静かに残されており、歴史を感じさせる空間として訪れる人々に深い感慨を与えています。村上義清や真田信繁など、名だたる武将たちが関わったこの地は、戦国の記憶を今に伝える歴史探訪の地として、多くの歴史ファンに親しまれています。