築城の背景と歴史
信州移転と築城の目的
もともと藩庁を三河国奥殿(現在の愛知県岡崎市)に置いていた奥殿藩(後の龍岡藩)は、その領地の大半が信濃国佐久郡に広がっていたことから、藩主・松平乗謨は幕府に藩庁移転を願い出て許可を得ました。動乱の時代にあって、領地の中枢である佐久に藩庁を移すことは、より安全な政治運営のためにも不可欠だったのです。
西洋軍学と稜堡式設計
松平乗謨は西洋の軍学に関心を持ち、特に砲撃戦に対応する要塞構造として「稜堡式(星形)要塞」を自ら設計しました。建設は1864年に始まり、1866年には石垣と土塁、1867年には御殿などが完成。領民にも見学が許された近代的な設計の建物でした。
しかし、幕末の政局により藩主が中央政界に関わるようになると、資金と時間の制約から一部は未完成のままとなり、またその軍事的実用性にも限界があったとされています。
明治以降の変遷
1872年(明治5年)、廃藩置県に伴い龍岡藩は廃藩となり、城の建物は解体・売却されました。唯一現存する「御台所」は、城内で場所を移されながら保存され、現在は佐久市立田口小学校の敷地内にあります。
この場所は1875年より学校用地として活用され、田口小学校が閉校する2022年まで地域の教育の場として親しまれてきました。
城郭の構造
外観と内部構成
龍岡城の面積は約2万75坪で、五稜郭の約半分の規模です。五つの稜堡が張り出した星形の構造を持ち、中央に御殿、周囲に武士の長屋や火薬庫、社殿などが配置されていました。
星形要塞として設計されたものの、すべての稜堡に砲台があるわけではなく、西南角に1基のみ、堀の幅も7~9メートルと狭く、防御面では不十分な面もありました。これは松平乗謨が実用的な軍事施設ではなく、学術的関心と格式を重視した設計だったと考えられています。
残された遺構と建造物
現在、石垣、水堀、御台所といった当時の遺構が一部残されており、御殿の大広間は佐久市鳴瀬の時宗寺に、通用口の門は野沢の成田山薬師寺に、それぞれ移築されています。また、新海三社神社へ向かう道沿いの民家には、かつての門が移築されています。
観光と見学情報
見学のポイント
龍岡城跡は、続日本100名城(129番)にも選ばれており、現在は閉校となった小学校跡地が整備され、自由に見学が可能となっています。かつての大手門前には「五稜郭であいの館」があり、龍岡城に関するパネル展示や資料を楽しむことができます。また、裏山には展望台が設置されており、星形の構造を一望できます。
さらに、佐久市役所の許可を得れば、ドローンによる空撮も可能で、龍岡城の美しい星形を上空から眺めることができます。
交通アクセス
所在地:長野県佐久市田口3000-1
自動車:上信越自動車道・佐久南ICから車で約20分(約10km)
鉄道:JR小海線「臼田駅」または「龍岡城駅」から徒歩約20分(約1.5km)
※路線バスの運行はありません。
周辺施設
城跡の近隣には、当地出身の彫刻家・川村吾蔵の作品や資料を展示する川村吾蔵記念館もあります。龍岡城を訪れる際には、こちらも併せて巡ることで地域の歴史や文化により深く触れることができます。