正受庵は、長野県飯山市に位置する臨済宗の名刹であり、その歴史は17世紀にまでさかのぼります。山号は小畝山(こうねさん)と称し、臨済宗中興の祖として名高い白隠慧鶴の師であった道鏡慧端(どうきょうえたん)が暮らした庵としても知られています。その文化的価値の高さから、1960年(昭和35年)2月11日には長野県指定史跡となっています。
正受庵の開山である慧端は、松代藩主・真田信之の庶子と伝えられ、寛永19年(1642年)に飯山城にて誕生しました。万治3年(1660年)、飯山藩主松平忠倶の参勤交代に同行して江戸に赴き、麻布東北庵にて至道無難の弟子となり、わずか1年足らずで印可を受けるほどの才能を示しました。
その後、飯山に帰郷した慧端に対し、藩主・松平忠倶は一庵を建立して贈呈しました。慧端はこの庵に、師である無難から授かった「正受」の扁額を掲げ、正受庵と名付けました。
寛文7年(1667年)、慧端は再び至道無難のもとで修行を続け、その後も度々江戸と飯山を行き来しました。延宝4年(1676年)に無難が入寂すると、慧端は飯山に戻り、生涯の多くをこの正受庵で禅の修行と教化に費やしました。
享保6年(1721年)に80歳で没するまで、藩主からの寺領寄進や水戸光圀からの招請をすべて辞退し、世俗の栄達とは無縁の厳しい修行生活を送ったと伝えられています。
寛文6年(1666年)に創建された正受庵は、天和2年(1682年)に東北寺の末寺として正式に認可されました。慧端の没後、弘化4年(1847年)の善光寺地震で庵は倒壊し、仏殿を兼ねた本堂のみが再建されました。この本堂の再建は、当時の藩主・本多助賢の支援によるものであり、棟札の記録からもその様子をうかがうことができます。
正受庵はそもそも修行を目的とした場であったため、菩提寺のような宗教的支援や檀家制度を持たず、財政的な基盤に乏しい存在でした。文政3年(1820年)には第五世庵主が藩命により退去させられ、その後は無住の状態が続き、庵は次第に荒廃していきました。
明治6年(1873年)には正受庵は一度廃庵となりますが、その文化的意義を惜しんだ臨済宗関係者や、山岡鉄舟・高橋泥舟らの尽力により、1884年(明治17年)に再興が決定されました。しかし、財源や信者の確保が困難を極め、復興事業は難航しました。
1923年(大正12年)には正受庵保存会が設立されましたが、関東大震災の影響で事業は中断。その後も地道な努力が重ねられ、1928年(昭和3年)には本堂と庫裏の修築が実現しました。
第二次大戦後は、臨済宗各派の支援により再興が進み、1977年(昭和52年)には本堂の再修築と茶室の新築が行われました。また、1953年には城山から鐘楼が移築され、境内の整備が進められました。
2004年の新潟県中越地震では、本堂が大きな損傷を受け、160年ぶりの全面的な解体修理が実施されました。この修復では、古材の再利用や間取りの復元も行われ、2007年には工事が完了。修復直後に発生した中越沖地震では再び被災しましたが、現在もその歴史的価値を守るための保全が続けられています。
正受庵の本堂は、単層寄棟造、茅葺き屋根の伝統的な建築様式を今に伝えています。桁行6間、梁間4間半の建坪37坪で、正面は東に向けて建てられています。間取りは桁行6間を3列に分け、土間・台所・居間・仏間などが配置され、禅僧の質素な生活空間が再現されています。
平成の修復により、かつての間取りや仏壇の位置も正確に復元されており、創建当時の姿を想起させる構成となっています。
正受庵は、修行専門の道場としての特徴を持ち、他の寺院とは一線を画す存在です。住職制度や寺領の所有を拒んだ慧端の思想を反映し、禅宗の本来の精神性を色濃く残しています。また、その建築や歴史は、長野県北部の文化財としても高く評価されています。
正受庵は、単なる寺院としてだけでなく、日本の禅文化の深淵を今に伝える貴重な史跡です。訪れる者は、慧端の精神や禅の本質に触れることができ、静謐な境内から深い感銘を受けることでしょう。その静けさと歴史に満ちた空間は、忙しい現代において心を鎮める貴重な場となっています。