明専寺は、長野県上水内郡信濃町に所在する浄土真宗本願寺派の寺院です。山号は終北山(しゅうほくざん)、本尊は木造阿弥陀如来立像です。信濃町の静かな山あいに位置し、歴史的にも文化的にも深い意義を持つ寺院として、地域の人々に親しまれています。
明専寺の寺伝である「明専寺の歴史」によれば、創建は鎌倉時代の貞永元年(1232年)とされており、当初は現在の愛知県豊田市にあたる三河国加茂郡月原村で、天台宗の僧・永円によって明専院として建立されたのが始まりです。創建当初は現在の浄土真宗とは異なり、天台宗に属していました。
室町時代の文明17年(1485年)、第7世住職・念西の代に、浄土真宗中興の祖として知られる蓮如上人より正式に寺号「明専寺」が授けられ、以後、浄土真宗本願寺派の寺院としての道を歩み始めました。
戦国時代に入ると、明専寺は激動の時代を迎えます。元亀元年(1570年)に始まった石山合戦では、第11世住職・光源が門徒とともに参戦しました。石山合戦は、本願寺と織田信長との対立による大規模な戦いであり、明専寺もその渦中に巻き込まれていきました。
さらに、天正5年(1577年)には、徳川家康が三河国内の真宗門徒を追放する政策を実行(三河一向一揆)し、光源は故郷を離れざるを得なくなりました。その後、越後国(現在の新潟県)へと移り、各地を転々としながら布教と再建の道を模索しました。
その後、明専寺は慶長11年(1606年)に信濃国へ移転します。各地を移動しながら、信徒を集めつつ寺の再建を進め、ようやく延宝4年(1676年)、第16世・秀海の時代に、現在の地である北国街道・柏原宿の北端に堂宇を建立し、寺としての基盤を固めることができました。
しかし、明専寺の苦難は続きます。明治35年(1902年)には大火により、伽藍の多くが焼失しました。本堂は大正2年(1913年)に、庫裡は昭和53年(1978年)に再建され、現在の姿となりました。
寺の構造物としては、明和7年(1770年)に建立された鐘楼が今なお残されており、歴史的建築物として重要視されています。また、明専寺には以下のような貴重な寺宝が保管されています。
これらの品々は、浄土真宗の教義と歴史を物語る貴重な文化財として、信仰の対象であると同時に学術的にも価値の高いものとされています。
明専寺は、江戸時代後期の俳人として有名な小林一茶の菩提寺でもあります。一茶は信濃町柏原の出身で、地元に深い愛着を持ち、多くの句を詠みました。彼の生涯と作品は、地域の文化に今も大きな影響を与えています。
毎年11月19日には、小林一茶を偲ぶ「一茶忌」が開催され、彼の功績を顕彰する行事として、多くの参拝者や俳句愛好家が集まります。昭和50年(1975年)には、境内に有名な句である
「我と来て遊べや親のない雀」
の句碑が建立されました。この句は、一茶の人間味あふれるやさしさを象徴する名句として、今日まで広く親しまれています。
明専寺は、信濃町観光の中心地である柏原宿に位置し、近くには小林一茶記念館や野尻湖などの観光スポットも点在しています。静かで落ち着いた雰囲気の中、歴史と文化に触れるひとときを過ごすことができます。
JR信越本線の黒姫駅から徒歩または車で数分の距離にあり、アクセスも便利です。春や秋の季節には、周囲の自然と調和した美しい境内の風景が広がり、写真撮影や散策にも最適な場所です。
明専寺は、長野県信濃町に息づく歴史深い浄土真宗の寺院であり、戦乱や火災など数々の困難を乗り越えて今に至る貴重な文化財です。小林一茶との深いゆかりや、蓮如・親鸞の直筆といった寺宝を通じて、浄土真宗の教えと地域文化の融合が感じられる場所となっています。
訪れる人々にとって、明専寺は静寂の中に佇む癒しの空間であり、同時に日本の宗教・文学・建築の歩みを実感できる貴重な文化遺産でもあります。