小菅神社は、長野県飯山市に位置する歴史深い神社であり、戸隠・飯綱とともに「信州三大修験霊場」のひとつに数えられています。その由緒は古代にさかのぼり、修験道の霊場として広く知られてきました。現在も多くの参拝者や歴史愛好家が訪れる信仰の場となっています。
小菅神社の起源は、修験道の祖とされる役小角(えんのおづぬ)が開山した修験寺院「小菅山元隆寺(がんりゅうじ)」にあります。幾度かの荒廃と再建を経て、明治時代の神仏分離政策により現在の神社の形となりました。以後、前近代の寺院としての歴史と、近代以降の神社としての歴史が一体となり、霊場「小菅山」として総称されるようになりました。
創建年代は明確ではないものの、古文書によると、役小角は仏法を広めるにふさわしい地を探して各地を巡り、小菅山にたどり着いたとされています。その地の自然に感動していると地主神が現れ、「この地は諸神集合の地であり、仏法の広まりに最適である」と告げたと伝えられています。さらに小菅権現(馬頭観音の化身)が現れ、役小角は熊野、金峯山、白山、立山、山王、走湯、戸隠の神々を勧請して祀りました。
天文11年(1542年)に作成された「信濃国高井郡小菅山八所権現元隆寺来由記」には、坂上田村麻呂が東夷の叛乱を鎮めた後にこの地を訪れ、八所権現本宮や堂宇を再建し、元隆寺を建立したという記録があります。
戦国時代、小菅山は上杉氏の庇護を受け、特に上杉謙信が弘治3年(1557年)に願文を納めたことからも、その信仰の厚さが窺えます。しかし、永禄10年(1567年)の川中島の戦い後、武田軍の兵火により元隆寺は大きな被害を受けました。その後も度重なる戦火で荒廃し、慶長初年(1600年)にはほぼ廃墟となりました。
「信州高井郡小菅山元隆寺略縁起」によれば、元禄元年(1688年)になっても再建は行われず、かつての伽藍は田畑や荒野と化していたとされています。とはいえ、この縁起は版木刷りで流布されていたことから、一定の資金力と活動があったことも考えられ、完全な衰退とみなすには再考の余地があるとされます。
上述のような歴史観は長らく通説とされてきましたが、近年の研究では、これらの文書の信憑性や制作背景が見直されています。たとえば、別当大聖院が作成した縁起文書が広く頒布されていたことなどから、文書の内容に対する検証が進められています。
飯山市小菅地域には縄文時代の遺跡があり、弥生中期には稲作が行われていたことも判明しています。この地域は世界有数の豪雪地帯であるにもかかわらず、豊かな水と自然に恵まれた土地でした。そのため、修験道が入山する以前から自然信仰(水分神信仰)などが根付いていたと考えられます。
小菅山が霊場として確立したのは遅くとも平安時代後期までとされます。これは、社伝の木造馬頭観世音菩薩坐像がこの時代の作と考えられることによります。また、鎌倉末期から南北朝時代にかけて製作されたと推定される「菩提院曼荼羅」は、中国製の絹地に描かれた希少な仏画であり、小菅山の信仰と文化的厚みを示す資料です。
この時代は本地垂迹思想が定着し、中世における熊野信仰が広がった時期です。『梁塵秘抄』にも戸隠山が歌われており、熊野修験が小菅山をはじめ北信州全域に影響を与えたと考えられます。小菅荘一帯に八所権現だけでなく熊野社が多数祀られていることも、それを裏付けています。
小菅神社は、単なる神社ではなく、修験道と深く結びついた霊場として、長い歴史の中で信仰と文化を育んできました。その由緒や伝承は多くの古文書に記録され、民俗学や歴史学の分野でも注目されています。自然と信仰が融合したこの地は、現代においても心を癒す静かな聖地として、多くの人々の心を引き寄せてやみません。