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飯山城

(いいやまじょう)

飯山城は、長野県飯山市にかつて存在した日本の城で、信濃国水内郡(のちの下水内郡)飯山に築かれました。平山城として知られ、周囲を自然に囲まれた風光明媚な地に位置していました。

飯山城の概要

立地と構造

飯山城は、東に千曲川、西に山地を望む、自然の要害を活かした丘陵地帯に築かれた平山城です。築城年は正確には不明ですが、14世紀初頭には泉氏の居城とされていました。その後、高梨氏の支配を経て、戦国時代には上杉氏の前線基地として大改修が施されました。

江戸時代の藩庁として

江戸時代には飯山藩の藩庁が置かれ、複数の大名家によって城主が交代しました。最終的には本多氏が十代にわたって支配し、明治維新まで続くこととなります。

飯山城の歴史

戦国時代の攻防

弘治3年(1557年)、武田氏の侵攻により、高梨政頼は居城を追われ、飯山城へ移されました。その後、永禄7年(1564年)には、越後の武将・上杉謙信が、甲斐国の武田信玄に対抗するため、飯山城を防衛・戦略の拠点として本格的に築き直しました。これは上杉謙信自らが手掛けた数少ない築城のひとつとされ、重要な史実です。

その後の変遷

天正6年(1578年)には、飯山城は武田勝頼に譲渡されましたが、その後の武田氏の滅亡により、城主は再び変遷を重ねます。森長可、上杉景勝、石川光吉、関一政らが支配し、最終的には松平忠輝の家臣である皆川広照が城主として入封しました。

しかし、忠輝の不行跡を徳川家康に訴えたことで、皆川は家老不適格とされて除封されました。その後は堀氏、佐久間氏、桜井松平氏、永井氏、青山氏など、目まぐるしく城主が交代しました。

本多氏の治世と飯山戦争

享保2年(1717年)に越後糸魚川藩より本多助芳が入封し、それ以降、本多氏が十代にわたり支配。明治元年(1868年)の戊辰戦争の一環である飯山戦争では、旧幕府軍の攻撃を受け、城下町は焼失しました。明治の廃藩置県以降、城は破却され、その多くの建物が姿を消しました。

飯山城の構造と遺構

城郭構造

飯山城は丘陵上に本丸、二の丸、三の丸が南北に連なっており、西側の山麓には西郭、北には外郭が配置されていました。城の周囲には1重の堀が巡らされ、本丸には居館、二の丸には政庁、三の丸には櫓が設けられていました。城内には12棟の門が存在し、天守閣はなく、二重櫓がその代用とされていました。

重臣たちの屋敷は主に西郭に集中しており、弘化4年(1847年)の善光寺地震によって多くの石垣が崩壊しましたが、嘉永2年(1849年)に再建されています。

現在の遺構

現在、本丸跡は葵神社の境内となっており、二の丸は城址公園として整備されています。石垣や土塁も一部に残っており、往時の姿をしのばせます。春には桜が満開となり、訪れる人々を楽しませます。

移築された建造物

現存する城門など

飯山城の遺構の一部は、現在も周辺地域に移築されて保存されています。南中門跡には、民家から移築された2層の城門が現存し、不開門は飯山市の妙専寺に、裏門とされる門は長野市田子の民家に、さらに不明の門も中野市江部の民家に移築されています。また、長野市の信雙寺には、大手門が2層部分を焼失した状態で現存しています。

資料・パネル展示

飯山城址には、上杉謙信公築城450年を記念したパネル展示があり、鳥観図や「飯山城絵図」の複写に加え、城の縄張りの説明、さらには将来的な整備計画に関する資料も掲示されています。

アクセス情報

公共交通機関でのアクセス

飯山城址へのアクセスは非常に便利です。JR飯山線の北飯山駅から徒歩約5分と、駅からも近く、観光に適した立地です。

自動車でのアクセス

車で訪れる場合は、上信越自動車道・豊田飯山ICから国道117号線を経由し、城山公園駐車場(無料・約20台分)を利用することが可能です。

おわりに

飯山城は、戦国時代から江戸時代、そして明治維新まで多くの武将たちの手を渡り歩きながら、地域の歴史を見守ってきた由緒ある城です。現在では公園や神社として整備され、春には桜が咲き誇るなど、地元住民や観光客にとって心安らぐ場所となっています。歴史を感じながら、四季折々の自然も楽しめる飯山城址を、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。

Information

名称
飯山城
(いいやまじょう)

野沢温泉・志賀高原

長野県