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佐良志奈神社

(さらしな じんじゃ)

佐良志奈神社は、長野県千曲市に鎮座する由緒正しい神社であり、『延喜式神名帳』にもその名が記されている格式ある式内社です。旧社格は郷社で、地域の人々から長年にわたり信仰を集めてきました。佐良志奈という社名は、「更級(さらしな)」という美しい地名に由来しており、神社の存在はこの地域の歴史と深く結びついています。

祭神について

当神社では、以下の三柱の神々をお祀りしています。

佐良志奈神社の歴史

創建と移転

社伝によれば、当初は允恭天皇の御代に、坂合黒彦皇子(さかあいくろひこのみこ)によって現在の更級山地の支嶺に創建されたと伝えられています。しかし、仁和3年(887年)に発生した大地震によって社地が崩落し、やむを得ず山麓へ遷座されたとされています。

中世の呼称と信仰

『源平盛衰記』の中に、「八幡社を伏拝み」と記されており、木曽義仲がこの地の神社を拝した可能性があると考えられています。中世まではこの神社は若宮八幡宮と称されており、地域の武士や民衆の厚い信仰を集めていました。

近世から近代への変遷

宝暦7年(1757年)には現在の社名である「佐良志奈神社」へと改称されました。さらに、宝暦9年(1759年)の松代藩の記録には、社領として3石が与えられていたことが記されています。

神仏習合時代には、別当寺として真言宗の若宮八幡神宮寺が存在しており、神社と寺院が一体となって地域信仰を支えていました。明治時代の神仏分離令により、このような形態は解消されました。

境内の見どころ

鳥居と社殿

現在の鳥居は千曲川に面した東側に建てられていますが、これはかつての神社の裏手にあたる場所でした。明治時代に戸倉駅が設けられ、千曲川に大正橋が架けられたことで、表参道と見なされるようになりました。本来の参道は西側の山手にあり、八王子山を越える万治峠道からの参詣が古来の姿とされています。

忠魂碑と宝篋印塔

境内には、昭和期に建立された忠魂碑や、永和2年(1378年)に建てられたとされる古い宝篋印塔が残されています。この石塔は、後醍醐天皇の皇子・宗良親王に従った在地武士45名が、自らの死を覚悟して建立したとされる「逆襲塚」とも伝えられ、昭和63年には千曲市の有形文化財に指定されました。

土塁跡と城館の名残

境内の北側と東側には中世の城館を思わせる土塁跡が残っています。これらは南朝方の武士団がこの地を拠点としていた痕跡であると考えられており、歴史好きにはたまらないスポットとなっています。

箭塚遺跡と社宝

江戸時代の文化年間に、近隣の箭塚遺跡から発掘された「細形銅剣」は、この神社の貴重な社宝として伝えられてきました。これは北九州を中心とする銅器文化が、遥か離れた信州にまで伝播していた証として、考古学界でも注目されました。昭和63年には千曲市の有形文化財にも指定されています。

地域との関わりと伝承

かつての氏子は、若宮村・黒彦村・芝原村の三か村で構成されていたとされます。特に旧黒彦村は1,000軒にも及ぶ非農耕者が暮らす大きな村落でしたが、戦国期の大洪水によって分散流亡したと伝えられています。これらの村の名称は、神社に由来する2人の皇子の名前に関係しているとも考えられています。

神秘的な洞窟跡

境内の南側には、かつて上山田温泉方面へと抜ける地下通路(洞窟)が存在していました。第二次世界大戦中には軍需工場として利用され、一部は完成したものの終戦により役割を終えました。戦後しばらくは、洞窟内に稲荷社が祀られたり、飲食店が営業されたこともありましたが、昭和中期には閉鎖されています。

自然とのふれあい ― カタクリ祭り

佐良志奈神社の境内南面に広がる北向き斜面には、春になると可憐なカタクリの花が一面に咲き誇ります。この美しい群生地は「みどりのサポート隊」によって保全されており、毎年3月末から4月初旬にかけて「カタクリ祭り」が開催されています。訪れる人々は、春の訪れを告げる花々に癒やされながら、自然と歴史の調和を体感することができます。

まとめ

佐良志奈神社は、長い歴史と豊かな自然、そして地域文化と深く結びついた神社です。単なる観光地としてだけでなく、信仰の場として、また歴史的・文化的な探訪の地としても価値のある場所です。春のカタクリ祭りや、境内に点在する文化財、古の城館跡や伝承など、多彩な魅力を有するこの神社を訪れることで、信州・千曲の風土を深く感じ取ることができるでしょう。

Information

名称
佐良志奈神社
(さらしな じんじゃ)

長野市・戸隠・小布施

長野県