寛慶寺は、長野県長野市東之門町にある浄土宗(鎮西派)に属する寺院で、正式には「寿福山 無量院 寛慶寺」と称します。長野の名刹・善光寺の東門に隣接しており、その歴史と文化的価値から、訪れる人々に深い感動と敬虔な心をもたらしています。
本寺の本尊は阿弥陀如来であり、浄土宗の総本山・知恩院を仰いでいます。寛慶寺は、古くから善光寺との深いつながりを持ち、宗教的・文化的な役割を果たしてきました。
寛慶寺の起源は、治承4年(1180年)に遡ります。戸隠山顕光寺(現在の戸隠神社)に仕えていた栗田範覚が、栗田の地に「栗田寺」として創建しました。その後、永正年間(1504~1521年)に栗田寛安が現在地に移転し、父・寛慶の名を取って「寛慶寺」と改名しました。
戦国時代の天正11年(1583年)には、松代の西念寺から洞誉春虎を招いて、天台宗から浄土宗へと改宗しました。以後、寛慶寺は西方寺・康楽寺とともに「三寺」として善光寺周辺で重きをなす寺院の一つとなりました。
寛慶寺はその長い歴史の中で、度重なる災害に見舞われました。寛永19年(1642年)、元禄元年(1668年)には火災に遭い、弘化4年(1847年)の善光寺大地震では表門が焼失しました。
この焼失を受け、善光寺大勧進第80世貫主・等順大僧正が新築した門が、彼の生家・坂口家の菩提寺である寛慶寺に寄付・移築されました。この表門は、その後の大火(明治24年)でも焼けかけましたが、門に施された獅子の彫刻が霧を吹いて火を消したと伝わり、「霧吹きの獅子」として今も語り継がれています。
大震災後、寛慶寺は1883年(明治16年)に再建され、現在も地域の信仰と歴史を伝える寺院として静かに佇んでいます。
仁王門に安置されている木造金剛力士像(阿形・吽形)は、明応7年(1498年)に造立されたとされる歴史的な仏像で、ヒノキ材の一木造りであり、像高は各280cmにも及びます。明治初期の廃仏毀釈によって現在の戸隠神社から移されたものと伝えられています。
もう一つの貴重な文化財として木造百万塔があります。これは1908年、法隆寺が所蔵していた百万塔の一部を譲与したもので、寛慶寺を含む4つの寺院が受け取ったもののひとつです。
その他にも、天台宗僧・願海が京で入手した祥啓筆の大黒天像や、冷泉為恭による白衣観音像などが伝来しており、長野市の指定文化財となっています。
文化13年(1816年)、全国を巡って念仏を広めていた高僧・徳本上人が信濃の地を巡錫中に寛慶寺に13泊した記録があります。彼はここに滞在しながら、善光寺に参籠する意識で修行していたとされます。
上人は「南無阿弥陀仏」と印刷された名号札を2万枚以上配布し、多くの人々に念仏信仰を広めました。この名号札を受け取った著名な人物の一人が俳人・小林一茶であり、彼はこの縁をもとに「居直るも銭の上也なむ桜」という句を詠みました。
このような深い縁から、2019年11月26日には寛慶寺にて「第3回念仏行者徳本上人研究会」が開催され、徳本上人の思想とその足跡について深く学ぶ場となりました。
寛慶寺は善光寺の東門近くに位置しており、JR長野駅からバスで約15分、徒歩でも善光寺参道からアクセス可能です。周辺には歴史的建造物や土産物店も多く、観光と合わせて訪れるのに適しています。
春の桜、秋の紅葉など、四季折々の景観も美しく、特に歴史ある建築物と自然が織りなす景色は写真愛好家や歴史散策の旅行者に人気です。
寛慶寺は、善光寺のすぐ東にあるにもかかわらず、比較的静かで落ち着いた雰囲気を保ち、歴史や文化を肌で感じられる貴重な寺院です。長野の旅で善光寺を訪れた際には、ぜひ寛慶寺にも足を延ばし、歴史ある門や金剛力士像、徳本上人ゆかりの地を訪ねてみてはいかがでしょうか。