西光寺は、長野県長野市にある浄土宗の寺院で、山号は苅萱山(かるかやさん)、院号は寂照院(じゃくしょういん)と称します。本尊は苅萱親子地蔵尊で、絵解きの寺としても知られています。地元では「かるかや山」の通称でも親しまれ、バス停や交差点の名前にも使用されるなど、地域に深く根差した存在です。
西光寺は、「苅萱伝説」に縁のある寺院として広く知られています。この伝説は、謡曲や説経節などを通じて古くから語り継がれてきました。物語の主人公は、かつて九州六カ国の国司を務めた加藤左衛門尉重氏。世の無常を悟り、出家して「苅萱道心(寂照坊等阿)」と名乗り、高野山で修行を始めました。
出家後に誕生した息子・石童丸とその母は、父を捜して高野山を訪れますが、女人禁制のため母は山麓に留まりました。石童丸は父とおぼしき僧に「父ではないか」と問いますが、道心は出家者としての誓いを守り、涙を堪えて「そなたの父は死んだ」と答えました。石童丸が下山すると母はすでに亡くなっており、彼はその後、再び高野山を訪れ、父と名乗らぬ道心と34年間も弟子として共に修行しました。
ある日、道心は善光寺の阿弥陀如来のお告げを受けて信濃国へ移住し、善光寺の近くに草庵を結びます。これが西光寺の起こりとされています。道心はこの地で14年間を過ごし、83歳で往生しました。その後、石童丸も父の死を知り、西光寺にやってきて父の墓を建立し、自らも父の命日と同じ8月24日に亡くなったと伝えられています。
西光寺には、苅萱道心と石童丸がそれぞれに刻んだとされる二体の地蔵菩薩像があります。これらは「苅萱親子地蔵」と呼ばれ、多くの参拝者の信仰を集めています。また、伝説を描いた絵巻『苅萱道心石童丸御親子御絵伝』を用いて絵解きが行われ、訪れる人々に深い感動を与えています。
西光寺の創建は正治元年(1199年)。善光寺如来のお導きにより、高野山から下った苅萱道心がこの地に草庵を結んだことに始まります。その後、親鸞聖人が越後からの帰途に西光寺を訪れ、50日間滞在。刈萱とともに戸隠山に登り、阿弥陀三尊像を合作したと伝えられています。
寺は時代を経て荒廃しましたが、永和2年(1376年)に学圓上人が本堂を再建し、復興。その後も地域の信仰を集め、江戸時代には10回ほどの出開帳が行われ、各地で絵解きが披露されました。明和6年(1769年)には、佐久郡の三氏が土地を寄進し、常念仏の再興が図られました。
江戸後期には、善光寺本堂の仮堂が西光寺に寄進されるなど、密接な関係が築かれました。また、明治時代には日本初の石油精製所が西光寺境内に設置されるなど、産業史とも関わる特異な歴史を持っています。本堂は度重なる建て替えを経て現在の姿となり、絵解き文化も平成元年に修復された「御絵伝」により受け継がれています。
西光寺の中心となる建物で、苅萱親子地蔵を祀り、絵解きが定期的に行われています。
道心、石童丸、そしてその母・千里御前の墓とされ、親子の物語を今に伝えています。
朝日山大蛇の塚と呼ばれる墓には、ある伝説が残されています。天明6年(1786年)、旭山で木を切っていた木こり・中兵衛が大蛇を殺し、見世物にして金儲けをしたところ、本人と家族が次々に亡くなり、地域でも病が広まりました。これは大蛇の祟りとされ、住民たちは西光寺に供養塔を建ててその霊を弔いました。この塚は動かすと祟りがあるとされ、戦後もそのまま境内入口に残されています。
西光寺は、苅萱道心と石童丸の悲しくも美しい親子の物語に彩られ、長野市の歴史や信仰文化の象徴ともいえる存在です。境内には様々な石碑や塚、そして長い年月を経てなお息づく絵解き文化があり、訪れる人々に深い感動と教訓を与えてくれます。長野を訪れた際には、ぜひこの静かなる歴史の舞台を歩いてみてはいかがでしょうか。