善光寺の特徴
無宗派の寺院としての歴史
善光寺は、天台宗と浄土宗によって護持・運営されていますが、特定の宗派に属さないことが特徴です。そのため、宗派を問わず誰でも参拝することができ、多くの人々の信仰を集めてきました。
女人救済の寺
平安時代から「女人救済の寺」として知られ、江戸時代には女性の参詣者が非常に多かったとされています。当時、女性の旅行は珍しいものでしたが、善光寺は女性が参拝できる数少ない寺院の一つでした。
本尊「一光三尊阿弥陀如来」
善光寺の本尊である「一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)」は、日本最古の仏像と伝わる秘仏です。絶対秘仏として、本堂内の「瑠璃壇(るりだん)」と呼ばれる厨子の中に安置され、住職ですらその姿を見ることはできません。七年に一度の御開帳では、本尊の分身とされる前立本尊(まえだちほんぞん)が公開され、多くの参拝者が訪れます。
善光寺本堂 〜国宝に指定された壮大な仏教建築〜
東日本最大の仏堂
善光寺の本堂は、1707年に再建されたものです。間口24メートル、奥行54メートル、棟高26メートルを誇り、東日本最大規模の仏堂として知られています。
独特な「撞木造(しゅもくづくり)」の構造
本堂の建築様式は「撞木造(しゅもくづくり)」と呼ばれ、上方から見ると屋根の形が「丁字(T字)」に見える特徴的な構造を持っています。この構造は、日本の仏教建築の中でも非常に珍しいものです。
御戒壇巡り 〜極楽往生を願う体験〜
本堂の中には、御戒壇巡り(おかいだんめぐり)と呼ばれる特別な体験ができます。本尊の真下を通る暗闇の回廊を進み、途中にある「極楽の錠前」に触れることで、極楽往生が約束されると伝えられています。
善光寺門前町と名物
仲見世通りの魅力
善光寺の参道には、歴史あるお店が軒を連ねる「仲見世通り」があります。ここでは、信州ならではの郷土料理やお土産を楽しむことができます。
名物グルメ
- おやき:小麦粉の皮で野菜やあんこを包んだ郷土料理
- 信州味噌:発酵の旨味が詰まった長野県を代表する調味料
- 信州そば:香り高く、のどごしの良い本格そば
- 八幡屋礒五郎の七味唐辛子:江戸時代から続く伝統の香辛料
善光寺詣りの文化
「一生に一度は善光寺詣り」
江戸時代には、善光寺詣りは人生で一度は訪れるべき寺として広く信仰されていました。「一度お参りすると極楽往生できる」とされ、全国各地から多くの人々が参拝に訪れました。
回向柱(えこうばしら)のご利益
御開帳の際、本堂前には「回向柱(えこうばしら)」が立てられます。この柱は本尊と結ばれており、触れることで本尊のご利益を授かることができるとされています。
善光寺と戦国時代
大名たちが求めた「善光寺如来」
善光寺如来は、日本全国の武将たちにも信仰されていました。戦国時代には、上杉謙信や武田信玄などの名だたる大名が善光寺如来を領国に迎え入れようとし、仏像は各地を転々としました。
長野の地名の由来
長野市の中心市街地は「善光寺門前町」として発展し、その影響で長野盆地一帯は「善光寺平(ぜんこうじだいら)」とも呼ばれています。
伽藍
本堂をはじめとする伽藍(がらん)は壮麗であり、歴史的にも重要な建築が数多く存在します。
本堂
善光寺本堂は、日本の近世建築の中でも最大級の規模を誇り、その屋根の広さは日本一と言われています。建設費用は約2万5000両にのぼり、全国各地で開催された回国出開帳(かいこくでがいちょう)によって資金が集められました。1953年には国宝に指定されています。
本堂の構造
現在の本堂は、宝永4年(1707年)に竣工しました。設計は幕府大棟梁である甲良宗賀が担当し、本尊の阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)を安置しています。一見すると二階建てのように見えますが、実際は「一重裳階付き(いちじゅうもこしつき)」という建築様式で造られています。
本堂の屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、屋根形式は「撞木造(しゅもくづくり)」と呼ばれる独特の形状をしています。この形式は、入母屋造の屋根を丁字形に組み合わせたもので、上から見ると大棟の線がT字状になっています。
内部構造
本堂の内部は以下のような構造になっています。
- 外陣:正面奥行4間分の広間
- 内陣:奥行5間分で参拝者が本尊に近づくことができるエリア
- 中陣:外陣と内陣の間
- 内々陣:本堂の最奥部で、本尊が安置されている場所
内々陣には、秘仏本尊の阿弥陀三尊像が安置された瑠璃壇があり、その前には「不滅の法燈(常燈明)」が灯されています。この瑠璃壇は、1789年に諏訪の初代立川和四郎によって造られたもので、美しい透かし彫りが施されています。
御戒壇巡り
本堂内には、参拝者が体験できる「御戒壇巡り」という特別な巡礼コースがあります。本尊が安置されている瑠璃壇の下を、真っ暗な板廊下をたどりながら巡るもので、途中には「極楽の錠前」と呼ばれる鍵があります。この鍵に触れると極楽往生が約束されると伝えられています。
外陣
外陣には、次のような見どころがあります。
- 妻戸台:太鼓などが置かれる大きな台
- 松の枝:親鸞聖人が善光寺を訪れた際に奉納したとされる
- びんずる尊者像:病気平癒のご利益があるとされ、体の悪い部分をなでると治ると言われる
毎年1月6日の夜には「おびんずるまわし」という行事が行われ、びんずる尊者像を担いで堂内を巡ります。
山門(三門)
山門の特徴
善光寺の山門(重要文化財)は、寛延3年(1750年)に完成しました。正面には「善光寺」の額が掲げられており、これは公澄法親王の書によるものです。この額には、鳩の姿が5羽隠されており、「鳩字の額」として親しまれています。
山門内部
山門の2階には、以下の仏像や美術品が安置されています。
- 山門本尊の文殊菩薩騎獅像
- 四方を守護する四天王像
- 鮮やかに修復された仏間の障壁画
- 四国八十八ヶ所霊場の御分身仏
経蔵(重要文化財)
経蔵の歴史
善光寺の経蔵は、1759年に建立された五間四方の宝形造りの建物です。内部には、高さ約6メートル、重さ約5トンの巨大な輪蔵が設置されており、これを時計回りに一周押し回すと、すべての経典を読んだのと同じ功徳を得られるとされています。
経蔵内の仏像
経蔵には、以下の仏像が安置されています。
- 輪蔵の考案者である傅大士像
- 伝教大師(最澄)・慈覚大師(円仁)の像
日本忠霊殿・善光寺資料館
日本忠霊殿
日本忠霊殿は、戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでの戦没者を祀る慰霊塔です。1970年に三重塔構造に改築されました。
善光寺資料館
善光寺資料館では、寺が所蔵する貴重な文化財や什物(じゅうもつ)を展示しています。
善光寺の歴史
善光寺は、日本最古の仏像を本尊とする寺院として広く信仰を集めています。その創建は日本に仏教が伝わった時期にさかのぼり、多くの歴史的な出来事と深い関わりを持っています。本記事では、善光寺の創建から発展、源頼朝や北条氏の信仰、全国への信仰の広がりについて詳しくご紹介します。
善光寺の創建と発展
善光寺の起源
善光寺の正確な創建年は不明ですが、仏教が日本に伝来した直後の時期とされています。本尊である「一光三尊阿弥陀如来」は、仏教の発祥地であるインド(天竺)の月蓋長者が鋳造したと伝えられ、百済の聖明王(聖王)から日本に献上されたとされています。この仏像は、日本最古の仏像とされ、大変貴重なものです。
一度、物部氏の廃仏派によって難波の堀江に捨てられましたが、本田善光(または若麻續東人)がこれを拾い、南信濃の元善光寺(現在の長野県飯田市)へ安置した後、現在の地に遷座されたと伝えられています。
郡寺としての発展
善光寺の創建に関する有力な説の一つとして、天武天皇の時代に日本全国で建立された郡寺(郡の役所の隣に建てられた寺)の一つであり、信濃国水内郡の豪族であった金刺氏が創建に関わったとする説があります。
10世紀中ごろに成立した『僧妙達蘇生注記』に「善光寺」の名が登場し、11世紀に成立した『扶桑略記』には善光寺縁起に関する記録が残っています。このことから、平安時代にはすでに善光寺の存在が広く知られていたことが分かります。
源頼朝と北条氏による善光寺信仰
源頼朝の参詣と復興
平安時代末期の治承3年(1179年)、善光寺は大火災に見舞われました(『吾妻鏡』文治3年7月27日条)。この火災は『平家物語』にも記されており、当時の政情不安の中で起きた事件としても注目されています。火災の原因は落雷と伝えられています。
源頼朝が鎌倉幕府を開くと、信濃国は関東御分国となり、頼朝は善光寺の再建を命じました。文治3年(1187年)、信濃国守護であった比企能員を通じて、地元の御家人に善光寺の復興を指示しました。その後、建久8年(1197年)には頼朝自身も善光寺を訪れています。
北条氏による保護
鎌倉幕府が確立されると、北条氏も善光寺の保護に尽力しました。特に、北条氏庶流の名越氏が熱心に支援を行い、鎌倉にも「新善光寺」を創建しました。1246年には名越氏の主導で落慶供養が行われましたが、宮騒動の影響で名越氏は没落。その後、同じく北条氏庶流の金沢氏が善光寺の支援を引き継ぎました。
全国への信仰の広がり
善光寺信仰の広まり
鎌倉時代に入ると、善光寺信仰は急速に全国へ広がりました。各地で「夢で見た」とされる善光寺の本尊を模した「善光寺式阿弥陀三尊像」が造られ、多くの寺院が「善光寺」や「新善光寺」の名を冠するようになりました。
善光寺聖による普及
善光寺の信仰を広めたのは、「善光寺聖」と呼ばれる勧進聖たちの活動によるものです。彼らは各地を巡り、背負ってきた厨子を開いて善光寺如来の分身仏を開帳し、さらに「善光寺縁起絵伝」を使って絵解きを行い、人々に善光寺信仰を伝えました。この活動は、江戸時代の「出開帳」の基礎となり、善光寺信仰の普及に大きく貢献しました。
室町時代の火災と復興
善光寺は鎌倉時代に二度、室町時代には四度の火災に遭い、その都度再建されました。これらの再建には長い年月を要し、その間も勧進聖の活動が続けられました。特に、後深草院二条が著した『とはずがたり』には、1265年に善光寺を訪れた際の様子が記されており、当時の信仰の厚さがうかがえます。
善光寺の門前町
長野市の発展と善光寺町
長野市は、鎌倉時代以降に善光寺の門前町として形成され、次第に発展しました。古くから長野盆地は「善光寺平(ぜんこうじだいら)」とも呼ばれ、地域の中心として栄えてきました。
善光寺の参道と門前町の形成
元々、善光寺参道周辺から現在の信州大学教育学部付近までの緩やかな斜面が「長野」と呼ばれていたと考えられています。中世末には「水内郡長野村」として村名が記録されており、善光寺境内と門前町を含む現在の長野市大字長野に相当する地域がその範囲でした。
徳川家康による寺領寄進と門前町の発展
1601年(慶長6年)、徳川家康によって長野村と周辺の箱清水村、平柴村、七瀬村が善光寺領(1000石)として寄進されました。これにより、戦国時代に荒廃していた善光寺は復興し、門前町も活気を取り戻しました。
北国街道の宿場町「善光寺町」
1611年(慶長16年)、善光寺門前の参道は北国街道の経路に組み込まれ、宿場町としての役割を担うようになりました。この町は善光寺町(または善光寺宿)と呼ばれ、本陣や脇本陣が置かれ、旅籠も約30軒存在していました。
善光寺町の町並み
善光寺町は、以下のエリアで構成されていました。
八町とその枝町
大門町、後町、東町、西町、桜小路、岩石町、横町、新町が「八町」と呼ばれ、それぞれに枝町がありました。
両御所前
善光寺の大勧進と大本願の前には横沢町・立町という町がありました。
隣接する松代藩領・天領の町場
善光寺町には、松代藩領の妻科村(後町、新田町、石堂町)や、江戸幕府領(天領)であった権堂村(権堂町)の一部も含まれていました。
善光寺にまつわる伝説
牛に引かれて善光寺参り
昔、善光寺から東に十里の村に住んでいた信心の薄い老婆が、川で布を晒していたときのこと。突然、どこからか1頭の牛が現れ、角に布を引っかけて走り去ってしまいました。驚いた老婆は、牛を追いかけるうちに善光寺にたどり着きます。
その夜、夢の中で如来様が老婆の前に現れ、信心の大切さを説きました。目覚めた老婆は改心し、その後は熱心に善光寺を参詣するようになったといいます。
弁慶のねじり柱
源義経と共に旅をしていた武蔵坊弁慶が、善光寺を訪れた際、怒りに任せて本堂の柱をねじったと伝えられています。以来、本堂の東入口にある柱は、建て替えのたびに不思議とねじれてしまうのだそうです。
空を飛んだ柱
1313年、火災で焼失した善光寺の再建の際、大木を運ぶ途中で動かなくなってしまいました。すると、大木が突然天高く舞い上がり、善光寺に向かって飛んでいったと伝えられています。
残された台座の謎
1783年、浅間山の大噴火の際、善光寺の本堂から一体の仏様が飛び去り、戻ってこなかったといいます。現在も本堂の欄間には、仏像が消えた跡に台座(蓮台)だけが残っています。
幽霊の絵馬
長崎の中村吉蔵という男が善光寺参りをする途中、妻が亡くなってしまいました。しかし、渡し舟に乗ろうとしたとき、亡くなったはずの妻が現れ、赤ん坊に乳を与えます。その後、共に善光寺を参詣し、妻の姿は消えました。
吉蔵は、この奇跡を伝えるため、善光寺に幽霊の絵馬を奉納したと言われています。
まとめ
善光寺は、宗派を超えて広く信仰を集める歴史ある寺院です。東日本最大規模の本堂、秘仏「一光三尊阿弥陀如来」、御戒壇巡りなど、訪れる人々にさまざまな体験を提供しています。また、門前町のグルメやお土産も魅力的で、観光スポットとしても非常に人気があります。「一生に一度は善光寺詣り」と言われるほど、長い歴史の中で人々の信仰を集め続ける善光寺を、ぜひ訪れてみてください。