善光寺の特徴
無宗派の寺院としての歴史
善光寺は、天台宗と浄土宗によって護持・運営されていますが、特定の宗派に属さないことが特徴です。そのため、宗派を問わず誰でも参拝することができ、多くの人々の信仰を集めてきました。
女人救済の寺
平安時代から「女人救済の寺」として知られ、江戸時代には女性の参詣者が非常に多かったとされています。当時、女性の旅行は珍しいものでしたが、善光寺は女性が参拝できる数少ない寺院の一つでした。
本尊「一光三尊阿弥陀如来」
善光寺の本尊である「一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)」は、日本最古の仏像と伝わる秘仏です。絶対秘仏として、本堂内の「瑠璃壇(るりだん)」と呼ばれる厨子の中に安置され、住職ですらその姿を見ることはできません。七年に一度の御開帳では、本尊の分身とされる前立本尊(まえだちほんぞん)が公開され、多くの参拝者が訪れます。
善光寺本堂 〜国宝に指定された壮大な仏教建築〜
東日本最大の仏堂
善光寺の本堂は、1707年に再建されたものです。間口24メートル、奥行54メートル、棟高26メートルを誇り、東日本最大規模の仏堂として知られています。
独特な「撞木造(しゅもくづくり)」の構造
本堂の建築様式は「撞木造(しゅもくづくり)」と呼ばれ、上方から見ると屋根の形が「丁字(T字)」に見える特徴的な構造を持っています。この構造は、日本の仏教建築の中でも非常に珍しいものです。
御戒壇巡り 〜極楽往生を願う体験〜
本堂の中には、御戒壇巡り(おかいだんめぐり)と呼ばれる特別な体験ができます。本尊の真下を通る暗闇の回廊を進み、途中にある「極楽の錠前」に触れることで、極楽往生が約束されると伝えられています。
善光寺門前町と名物
仲見世通りの魅力
善光寺の参道には、歴史あるお店が軒を連ねる「仲見世通り」があります。ここでは、信州ならではの郷土料理やお土産を楽しむことができます。
名物グルメ
- おやき:小麦粉の皮で野菜やあんこを包んだ郷土料理
- 信州味噌:発酵の旨味が詰まった長野県を代表する調味料
- 信州そば:香り高く、のどごしの良い本格そば
- 八幡屋礒五郎の七味唐辛子:江戸時代から続く伝統の香辛料
善光寺詣りの文化
「一生に一度は善光寺詣り」
江戸時代には、善光寺詣りは人生で一度は訪れるべき寺として広く信仰されていました。「一度お参りすると極楽往生できる」とされ、全国各地から多くの人々が参拝に訪れました。
回向柱(えこうばしら)のご利益
御開帳の際、本堂前には「回向柱(えこうばしら)」が立てられます。この柱は本尊と結ばれており、触れることで本尊のご利益を授かることができるとされています。
善光寺と戦国時代
大名たちが求めた「善光寺如来」
善光寺如来は、日本全国の武将たちにも信仰されていました。戦国時代には、上杉謙信や武田信玄などの名だたる大名が善光寺如来を領国に迎え入れようとし、仏像は各地を転々としました。
長野の地名の由来
長野市の中心市街地は「善光寺門前町」として発展し、その影響で長野盆地一帯は「善光寺平(ぜんこうじだいら)」とも呼ばれています。
伽藍
本堂をはじめとする伽藍(がらん)は壮麗であり、歴史的にも重要な建築が数多く存在します。
本堂
善光寺本堂は、日本の近世建築の中でも最大級の規模を誇り、その屋根の広さは日本一と言われています。建設費用は約2万5000両にのぼり、全国各地で開催された回国出開帳(かいこくでがいちょう)によって資金が集められました。1953年には国宝に指定されています。
本堂の構造
現在の本堂は、宝永4年(1707年)に竣工しました。設計は幕府大棟梁である甲良宗賀が担当し、本尊の阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)を安置しています。一見すると二階建てのように見えますが、実際は「一重裳階付き(いちじゅうもこしつき)」という建築様式で造られています。
本堂の屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、屋根形式は「撞木造(しゅもくづくり)」と呼ばれる独特の形状をしています。この形式は、入母屋造の屋根を丁字形に組み合わせたもので、上から見ると大棟の線がT字状になっています。
内部構造
本堂の内部は以下のような構造になっています。
- 外陣:正面奥行4間分の広間
- 内陣:奥行5間分で参拝者が本尊に近づくことができるエリア
- 中陣:外陣と内陣の間
- 内々陣:本堂の最奥部で、本尊が安置されている場所
内々陣には、秘仏本尊の阿弥陀三尊像が安置された瑠璃壇があり、その前には「不滅の法燈(常燈明)」が灯されています。この瑠璃壇は、1789年に諏訪の初代立川和四郎によって造られたもので、美しい透かし彫りが施されています。
御戒壇巡り
本堂内には、参拝者が体験できる「御戒壇巡り」という特別な巡礼コースがあります。本尊が安置されている瑠璃壇の下を、真っ暗な板廊下をたどりながら巡るもので、途中には「極楽の錠前」と呼ばれる鍵があります。この鍵に触れると極楽往生が約束されると伝えられています。
外陣
外陣には、次のような見どころがあります。
- 妻戸台:太鼓などが置かれる大きな台
- 松の枝:親鸞聖人が善光寺を訪れた際に奉納したとされる
- びんずる尊者像:病気平癒のご利益があるとされ、体の悪い部分をなでると治ると言われる
毎年1月6日の夜には「おびんずるまわし」という行事が行われ、びんずる尊者像を担いで堂内を巡ります。
山門(三門)
山門の特徴
善光寺の山門(重要文化財)は、寛延3年(1750年)に完成しました。正面には「善光寺」の額が掲げられており、これは公澄法親王の書によるものです。この額には、鳩の姿が5羽隠されており、「鳩字の額」として親しまれています。
山門内部
山門の2階には、以下の仏像や美術品が安置されています。
- 山門本尊の文殊菩薩騎獅像
- 四方を守護する四天王像
- 鮮やかに修復された仏間の障壁画
- 四国八十八ヶ所霊場の御分身仏
経蔵(重要文化財)
経蔵の歴史
善光寺の経蔵は、1759年に建立された五間四方の宝形造りの建物です。内部には、高さ約6メートル、重さ約5トンの巨大な輪蔵が設置されており、これを時計回りに一周押し回すと、すべての経典を読んだのと同じ功徳を得られるとされています。
経蔵内の仏像
経蔵には、以下の仏像が安置されています。
- 輪蔵の考案者である傅大士像
- 伝教大師(最澄)・慈覚大師(円仁)の像
日本忠霊殿・善光寺資料館
日本忠霊殿
日本忠霊殿は、戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでの戦没者を祀る慰霊塔です。1970年に三重塔構造に改築されました。
善光寺資料館
善光寺資料館では、寺が所蔵する貴重な文化財や什物(じゅうもつ)を展示しています。
善光寺の歴史
善光寺は、日本最古の仏像を本尊とする寺院として広く信仰を集めています。その創建は日本に仏教が伝わった時期にさかのぼり、多くの歴史的な出来事と深い関わりを持っています。本記事では、善光寺の創建から発展、源頼朝や北条氏の信仰、全国への信仰の広がりについて詳しくご紹介します。
善光寺の創建と発展
善光寺の起源
善光寺の正確な創建年は不明ですが、仏教が日本に伝来した直後の時期とされています。本尊である「一光三尊阿弥陀如来」は、仏教の発祥地であるインド(天竺)の月蓋長者が鋳造したと伝えられ、百済の聖明王(聖王)から日本に献上されたとされています。この仏像は、日本最古の仏像とされ、大変貴重なものです。
一度、物部氏の廃仏派によって難波の堀江に捨てられましたが、本田善光(または若麻續東人)がこれを拾い、南信濃の元善光寺(現在の長野県飯田市)へ安置した後、現在の地に遷座されたと伝えられています。
郡寺としての発展
善光寺の創建に関する有力な説の一つとして、天武天皇の時代に日本全国で建立された郡寺(郡の役所の隣に建てられた寺)の一つであり、信濃国水内郡の豪族であった金刺氏が創建に関わったとする説があります。
10世紀中ごろに成立した『僧妙達蘇生注記』に「善光寺」の名が登場し、11世紀に成立した『扶桑略記』には善光寺縁起に関する記録が残っています。このことから、平安時代にはすでに善光寺の存在が広く知られていたことが分かります。
源頼朝と北条氏による善光寺信仰
源頼朝の参詣と復興
平安時代末期の治承3年(1179年)、善光寺は大火災に見舞われました(『吾妻鏡』文治3年7月27日条)。この火災は『平家物語』にも記されており、当時の政情不安の中で起きた事件としても注目されています。火災の原因は落雷と伝えられています。
源頼朝が鎌倉幕府を開くと、信濃国は関東御分国となり、頼朝は善光寺の再建を命じました。文治3年(1187年)、信濃国守護であった比企能員を通じて、地元の御家人に善光寺の復興を指示しました。その後、建久8年(1197年)には頼朝自身も善光寺を訪れています。
北条氏による保護
鎌倉幕府が確立されると、北条氏も善光寺の保護に尽力しました。特に、北条氏庶流の名越氏が熱心に支援を行い、鎌倉にも「新善光寺」を創建しました。1246年には名越氏の主導で落慶供養が行われましたが、宮騒動の影響で名越氏は没落。その後、同じく北条氏庶流の金沢氏が善光寺の支援を引き継ぎました。
全国への信仰の広がり
善光寺信仰の広まり
鎌倉時代に入ると、善光寺信仰は急速に全国へ広がりました。各地で「夢で見た」とされる善光寺の本尊を模した「善光寺式阿弥陀三尊像」が造られ、多くの寺院が「善光寺」や「新善光寺」の名を冠するようになりました。
善光寺聖による普及
善光寺の信仰を広めたのは、「善光寺聖」と呼ばれる勧進聖たちの活動によるものです。彼らは各地を巡り、背負ってきた厨子を開いて善光寺如来の分身仏を開帳し、さらに「善光寺縁起絵伝」を使って絵解きを行い、人々に善光寺信仰を伝えました。この活動は、江戸時代の「出開帳」の基礎となり、善光寺信仰の普及に大きく貢献しました。
室町時代の火災と復興
善光寺は鎌倉時代に二度、室町時代には四度の火災に遭い、その都度再建されました。これらの再建には長い年月を要し、その間も勧進聖の活動が続けられました。特に、後深草院二条が著した『とはずがたり』には、1265年に善光寺を訪れた際の様子が記されており、当時の信仰の厚さがうかがえます。
善光寺の門前町
長野市の発展と善光寺町
長野市は、鎌倉時代以降に善光寺の門前町として形成され、次第に発展しました。古くから長野盆地は「善光寺平(ぜんこうじだいら)」とも呼ばれ、地域の中心として栄えてきました。
善光寺の参道と門前町の形成
元々、善光寺参道周辺から現在の信州大学教育学部付近までの緩やかな斜面が「長野」と呼ばれていたと考えられています。中世末には「水内郡長野村」として村名が記録されており、善光寺境内と門前町を含む現在の長野市大字長野に相当する地域がその範囲でした。
徳川家康による寺領寄進と門前町の発展
1601年(慶長6年)、徳川家康によって長野村と周辺の箱清水村、平柴村、七瀬村が善光寺領(1000石)として寄進されました。これにより、戦国時代に荒廃していた善光寺は復興し、門前町も活気を取り戻しました。
北国街道の宿場町「善光寺町」
1611年(慶長16年)、善光寺門前の参道は北国街道の経路に組み込まれ、宿場町としての役割を担うようになりました。この町は善光寺町(または善光寺宿)と呼ばれ、本陣や脇本陣が置かれ、旅籠も約30軒存在していました。
善光寺町の町並み
善光寺町は、以下のエリアで構成されていました。
八町とその枝町
大門町、後町、東町、西町、桜小路、岩石町、横町、新町が「八町」と呼ばれ、それぞれに枝町がありました。
両御所前
善光寺の大勧進と大本願の前には横沢町・立町という町がありました。
隣接する松代藩領・天領の町場
善光寺町には、松代藩領の妻科村(後町、新田町、石堂町)や、江戸幕府領(天領)であった権堂村(権堂町)の一部も含まれていました。
善光寺にまつわる伝説
牛に引かれて善光寺参り
昔、善光寺から東に十里の村に住んでいた信心の薄い老婆が、川で布を晒していたときのこと。突然、どこからか1頭の牛が現れ、角に布を引っかけて走り去ってしまいました。驚いた老婆は、牛を追いかけるうちに善光寺にたどり着きます。
その夜、夢の中で如来様が老婆の前に現れ、信心の大切さを説きました。目覚めた老婆は改心し、その後は熱心に善光寺を参詣するようになったといいます。
弁慶のねじり柱
源義経と共に旅をしていた武蔵坊弁慶が、善光寺を訪れた際、怒りに任せて本堂の柱をねじったと伝えられています。以来、本堂の東入口にある柱は、建て替えのたびに不思議とねじれてしまうのだそうです。
空を飛んだ柱
1313年、火災で焼失した善光寺の再建の際、大木を運ぶ途中で動かなくなってしまいました。すると、大木が突然天高く舞い上がり、善光寺に向かって飛んでいったと伝えられています。
残された台座の謎
1783年、浅間山の大噴火の際、善光寺の本堂から一体の仏様が飛び去り、戻ってこなかったといいます。現在も本堂の欄間には、仏像が消えた跡に台座(蓮台)だけが残っています。
幽霊の絵馬
長崎の中村吉蔵という男が善光寺参りをする途中、妻が亡くなってしまいました。しかし、渡し舟に乗ろうとしたとき、亡くなったはずの妻が現れ、赤ん坊に乳を与えます。その後、共に善光寺を参詣し、妻の姿は消えました。
吉蔵は、この奇跡を伝えるため、善光寺に幽霊の絵馬を奉納したと言われています。
まとめ
善光寺は、宗派を超えて広く信仰を集める歴史ある寺院です。東日本最大規模の本堂、秘仏「一光三尊阿弥陀如来」、御戒壇巡りなど、訪れる人々にさまざまな体験を提供しています。また、門前町のグルメやお土産も魅力的で、観光スポットとしても非常に人気があります。「一生に一度は善光寺詣り」と言われるほど、長い歴史の中で人々の信仰を集め続ける善光寺を、ぜひ訪れてみてください。
長野県長野市に位置する由緒正しき寺院
善光寺は、長野県長野市元善町にある歴史と伝統を誇る仏教寺院です。その特徴は、いずれの宗派にも属さない無宗派の単立寺院である点にあります。しかし、実際の護持と運営は天台宗および浄土宗の両宗派によって行われており、住職としては「大勧進貫主(だいかんじんかんす)」と「大本願上人(だいほんがんしょうにん)」という二人の僧侶が務めています。
本尊とその開帳
善光寺の本尊は、「一光三尊阿弥陀如来(いっこうさんぞんあみだにょらい)」という仏像で、日本最古の仏像の一つとされています。この像は絶対秘仏として、普段は誰もその姿を見ることができません。7年に一度行われる「御開帳(ごかいちょう)」では、前立本尊(まえだちほんぞん)と呼ばれる分身像が公開され、多くの参詣者が訪れます。この期間中、本堂前には「回向柱(えこうばしら)」が立てられ、これに触れることで御利益を授かると信じられています。
善光寺如来の伝来と信仰の広がり
この善光寺如来は、戦国時代には大名たちがこぞって自身の領地に仏像を移し、信仰の対象としました。そのため、善光寺如来は各地を転々とした経緯があります。古くから「一生に一度は善光寺詣り」と語られ、多くの人々が全国から善光寺を目指して参拝しました。
善光寺の組織と運営
山号と宗派の役割
善光寺の山号は「定額山(じょうがくさん)」といい、寺内には天台宗の「大勧進」と25の院、浄土宗の「大本願」と14の坊が存在し、それぞれの宗派が共同で寺を護持・運営しています。「大本願」は女性住職が代々務めることでも知られており、門跡寺院ではないものの、かつては公家出身者が多く住職として迎えられていました。
現任の住職
2022年(令和4年)には第104世の栢木寛照(かやのきかんしょう)が「大勧進貫主」として就任しました。また、2025年(令和7年)4月には第122世の川名観惠(かわなかんえ)が「大本願上人」に就任しています。
四門四額と呼ばれる寺名の表記
善光寺には古来より「四門四額(しもんしがく)」と呼ばれる独特の呼称があり、東門は「定額山善光寺」、南門は「南命山無量寿寺」、北門は「北空山雲上寺」、西門は「不捨山浄土寺」と称されます。
特徴と霊場としての位置づけ
宗派を問わない受け入れと女性救済
善光寺は日本の仏教が各宗派に分かれる以前に建立されたとされるため、宗派を問わずに参拝が可能な霊場として知られています。また、古くから女性の救済を重視していたことでも特筆されます。江戸時代には多くの女性参詣者が訪れ、当時としては珍しい現象でした。
極楽往生への信仰
善光寺の信仰は現世利益よりも、死後の「極楽往生」を願うものであり、「身分や性別、善悪を問わず、すべての人が救われる」とされる教えが、多くの人々の心を惹きつけました。
善光寺本尊の神秘
絶対秘仏とその信仰
本尊の「一光三尊阿弥陀如来」は丈一尺五寸の像で、三国渡来の霊像と伝えられています。本堂の「瑠璃壇」内に安置され、住職ですら見ることができないとされています。「お朝事」や正午の法要時に十数秒だけ戸張が上がり、拝むことが許されています。
御開帳と日本百観音との関わり
数えで7年に一度行われる「御開帳」では、金銅製の阿弥陀如来像(前立本尊)が公開されます。善光寺は「日本百観音」の番外札所としても知られており、秩父三十四観音を満願した後には「結願御礼」として善光寺を参詣する習わしもあります。
善光寺の創建と歴史
仏教伝来と本多善光の伝説
善光寺の創建年は定かではありませんが、日本への仏教伝来直後の時代に遡るとされています。伝承によれば、仏像はインドの月蓋長者が鋳造し、百済から日本に献上された最古の仏像とされます。仏像は一度、物部氏によって難波の堀江に捨てられましたが、それを拾った本田善光によって南信濃の元善光寺に安置された後、現在の長野市に移されたと伝えられています。
考古学的な見解と金刺氏の関わり
考古学的には、善光寺は天武天皇の時代に建立された郡寺の一つである可能性が高いとされており、信濃国水内郡の地方豪族「金刺氏(かなさしうじ)」が創建に深く関わったとする説が有力です。出土した古瓦からも、平安時代初期にはすでに瓦葺きの寺院が現在地に存在していたと考えられています。
名称の由来について
善光寺の名称については、「本田善光」の名に由来するとする説がある一方で、別の有力な説として「百済王善光」に由来するという見解も存在します。これは、百済系渡来人を祖先にもつ金刺氏の信仰や功績と関係があると考えられています。
文献にみる善光寺の記録
「善光寺」という名称が初めて登場するのは10世紀中ごろの『僧妙達蘇生注記』であり、善光寺に関する最も古い記録としては『扶桑略記』(1107年以前)に見られます。また、歴史上で善光寺参詣が確認されている最も古い人物は、摂政・関白を務めた藤原忠通の子、藤原覚忠(1118年 - 1177年)とされています。
善光寺の伽藍について
本堂
建築の特徴と規模
善光寺本堂は、近世に建築された寺院建築の中でも屈指の規模を誇り、東大寺の大仏殿に次ぐ大きさと言われております。特にその屋根の広がりは日本一とも称されるほどです。この荘厳な本堂の建設には約2万5千両の費用がかかりましたが、そのすべては全国各地を巡る出開帳により賄われたということです。現在の本堂は、宝永4年(1707年)に竣工し、設計は幕府大棟梁である甲良氏の3代目、甲良宗賀によって手掛けられました。そして、1953年に国宝として指定されました。
建築様式と内部構造
この本堂は、見た目には二階建てに見えますが、建築様式としては一重裳階付(いちじゅうもこしつき)と呼ばれる形式です。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、形状は特異な撞木造(しゅもくづくり)であり、これは入母屋造の屋根をT字型に組み合わせたものです。上空から見ると棟の線が丁字状に見えるのが特徴です。
本堂の平面構成は、正面5間、側面14間の本体(身舎)の周囲に幅1間の裳階を巡らせ、裳階を含めると正面7間、側面16間となります。全体の間口は約24メートル、奥行きは約54メートル、高さは約26メートルにおよび、他の仏殿と比べても奥行きの長さが際立っています。
内陣・中陣・内々陣
本堂の内部は、建物正面の「吹き抜けの間」(1間)に始まり、外陣(4間)、中陣、内陣(5間)、そして最奥の内々陣へと続きます。内々陣には、本尊である一光三尊阿弥陀如来像が安置されており、その前には絶え間なく灯り続ける常燈明(不滅の法燈)があります。
瑠璃壇と本尊
本尊は、1789年に諏訪の初代立川和四郎が製作した、縦160cm、幅91cmの瑠璃壇の中に安置されています。瑠璃壇には透かし彫りが施された扉が四方にあり、孔雀や竜が描かれています。この内部にはさらに厨子(ずし)があり、本尊は赤地の金襴に包まれて秘蔵されています。
仏像と開山像
内陣と中陣の間には、阿弥陀如来を迎える二十五菩薩像が欄間に彫られています。中陣の左右には、それぞれ地蔵菩薩と弥勒菩薩が安置され、参拝者を見守るように配されています。また、向かって右側には開山像を祀る御三卿の間があり、善光寺の開山者・本田善光公とその妻・弥生御前、息子・善佐の像が安置されています。これらの厨子は国宝の附指定で、寄棟造・本瓦形板葺きの格式高い造りとなっております。
御戒壇巡り
本堂内には、御戒壇巡りという特別な体験が可能です。これは本尊の真下に設けられた暗闇の回廊を手探りで進み、極楽の錠前と呼ばれる鍵に触れることで、極楽往生のご利益を得られると伝えられるものです。一方、心がけの良くない者は錠前に触れられず、犬に生まれ変わるという伝説もあります。
外陣
本堂に入って最初に目に入るのが、妻戸台と呼ばれる大きな台です。この上には太鼓などが置かれ、またその東側には松の枝が花瓶に差されています。これは、かつて親鸞上人が参拝した際に松の枝を捧げたことに由来しています。
そのほか、閻魔王像やおびんずる様(賓頭盧尊者像)などが安置されており、参拝者はおびんずる様の体を撫でた手で自らの患部をさすると病が癒えると信じられています。毎年1月6日には「おびんずるまわし」という行事が行われ、この像を堂内に担いで巡ります。なお、2020年の新型コロナウイルス感染症拡大時には感染対策のため、像に触れることや戒壇巡りが一時中止されました。
その他の伽藍と施設
山門(三門・重要文化財)
善光寺の正門である山門は、寛延3年(1750年)に建立されました。正面には公澄法親王が揮毫した「善光寺」の額が掲げられ、その文字には5羽の鳩が隠されており、「鳩字の額」として親しまれています。
2階内部には、文殊菩薩像、四天王像、色彩豊かな障壁画、そして四国八十八ヶ所霊場の御分身仏が安置されています。2007年には修復が行われ、屋根が檜皮葺から創建当初の栩葺き(とちぶき)へと戻されました。2階には江戸期から昭和にかけての参拝者による落書きも残っており、現在は常時拝観が可能です。
経蔵(重要文化財)
1759年に建立された経蔵は、五間四方の宝形造りで、内部中央には高さ6メートル・重さ5トンの巨大な輪蔵が設置されています。この輪蔵には鉄眼版『一切経』全6771巻が納められており、これを時計回りに一周回すことで、すべての経典を読んだのと同じ功徳が得られるとされています。
入り口には輪蔵を考案した傅大士の像、内部には伝教大師・慈覚大師の像が祀られ、前庭には石製の輪廻塔があり、これも功徳を積むために回されます。
日本忠霊殿と善光寺資料館
1906年に建立された忠霊殿は、1970年に現在の三重塔構造へと建て替えられ、戊辰戦争から第二次世界大戦に至る戦没者を慰霊する場となっています。1階部分には善光寺資料館が併設されており、寺院に関するさまざまな貴重な資料が展示されています。
仁王門(登録有形文化財)
1752年に建立された仁王門は、地震で焼失後、1918年に再建されました。門には「定額山」の額が掲げられ、伏見宮貞愛親王の筆によるものです。仁王像および背後の三宝荒神・三面大黒天は、近代彫刻家の高村光雲と米原雲海の作であり、仁王像は通常とは逆に、右に吽形、左に阿形が配置されています。
鐘楼(登録有形文化財)
この鐘楼は1853年に再建され、「南無阿弥陀仏」の六文字にちなみ、六本の柱で支えられています。鐘そのものはさらに古く、1632年に高橋白蓮によって鋳造されましたが、火災で焼失後、1667年に再鋳されました。
善光寺の文化財について
国宝
本堂(附:厨子1基)
善光寺の本堂は、建築的にも宗教的にも日本仏教建築を代表する重要な建物です。国宝に指定されており、附属の厨子1基も含まれています。すでに他の項で詳細が述べられている通り、この本堂は仏教信仰の中心として多くの参拝者を迎え続けています。
重要文化財
三門(山門)
参道の正面に位置する立派な山門で、重厚な造りが特徴です。
経蔵
仏教経典を収めた建物で、信仰と学問の拠点として重要な役割を果たしてきました。
金銅阿弥陀如来及び両脇侍立像(前立本尊)
参拝者が拝することのできる御本尊の前に安置された貴重な仏像です。
絹本著色阿弥陀聖衆来迎図(大本願所蔵)
来迎図は阿弥陀如来が来迎する様子を描いたもので、浄土教信仰の象徴的存在です。
善光寺造営図(大勧進所有)
1531年(享禄4年)の記録をもとに作成された絵巻8幅で、建築史・信仰史研究にも貴重です。
紙本墨書源氏物語事書(大勧進)
『源氏物語』の研究に資する重要資料です。
銅造釈迦涅槃像(世尊院釈迦堂)
釈迦の入滅を表した銅造の涅槃像で、非常に写実的な表現が特徴です。
登録有形文化財
鐘楼
1853年(嘉永6年)に建てられ、1926年(大正15年)に改修された建築で、現在も鐘の音が境内に響き渡ります。
仁王門
1918年(大正7年)に建立され、1977年(昭和52年)に改修。仁王像が左右に立ち、参拝者を見守ります。
重要美術品
梵鐘(寛永9年銘)
1632年に鋳造された由緒ある鐘で、法要時に響く音色が人々の心を清めます。
銅造地蔵菩薩坐像(ぬれ仏)
1722年(享保7年)鋳造。雨に濡れても風雨に耐えることから「ぬれ仏」と親しまれています。
五鈷杵(大勧進)
密教法具のひとつで、護摩法要などで用いられます。
銅鍾(鐘楼の梵鐘)
音色が美しく、善光寺の象徴の一つです。
長野市指定文化財
有形文化財
以下の木造仏像・法具が指定されています。
- 木造毘沙門天像(世尊院釈迦堂)
- 木造伐折羅大将像(大本願)
- 木造聖徳太子立像(大本願)
- 木造阿弥陀如来及両脇侍立像(世尊院釈迦堂)
- 木造百万塔(大本願)
- 六角銅製釣燈籠(玉照院)
- 五鈷鈴(世尊院釈迦堂)
- 羯磨金剛(世尊院釈迦堂)
- 石造宝篋印塔
無形文化財
「善光寺木遣り」が指定されており、御開帳や節分、祭礼などで鳶職人たちが歌いながら木材を運ぶ伝統行事です。
有形民俗文化財
「善光寺の正月行事用具」として、僧尼職の装束や儀礼道具など、六十余種が伝承されています。
記念物
善光寺参道の敷石(石畳)
多くの参拝者の足を受け入れてきた石畳の道は、歴史の重みを感じさせる存在です。
埋蔵文化財
善光寺門前町跡
古墳時代の竪穴建物が発見され、この地域の長い居住の歴史が明らかになっています。
元善町遺跡
南門から大本願にかけての範囲で発見され、中世から近世の瓦の破片などが多数出土しています。
善光寺の年中行事について
お朝事とお数珠頂戴
善光寺では年間を通じて「お朝事(おあさじ)」と呼ばれる朝の法要が毎日執り行われます。大勧進と大本願の順に僧侶全員が出仕して法要が営まれます。法要の際には、普段閉ざされている本尊前の瑠璃壇と厨子が開かれ、善光寺如来を垣間見る貴重な機会となっています。参拝者も内々陣にてこの神聖な場面に立ち会うことができます。
さらに、法要に向かう導師(大勧進貫主・大本願上人)によって「お数珠頂戴」の儀式が執り行われます。これは導師が参拝者の頭に数珠を当てて功徳を授けるもので、「身業説法」とも呼ばれる無言の仏道説法の一種です。
主な年間行事一覧
善光寺では、以下のような多彩な年中行事が行われております(一部抜粋)。
- 1月1日:朝拝式 - 新年最初の法要。
- 1月1日~3日:修正会 - 国家平安を祈る法要。
- 1月6日:びんずる廻し - 尊者像とともに廻る行事。
- 2月3日:節分会 - 赤鬼・青鬼の行列と豆まき。
- 3月15日:御会式 - 善光寺如来の遷座を記念。
- 4月8日:針供養会 - 折れた針の供養。
- 7月13日:開山忌 - 本田善光の忌日法要。
- 8月14日~15日:お盆縁日 - 大盆踊りや先祖供養の行事。
- 10月5日~14日:十夜会(浄土宗) - 「十夜仏」を開扉して供養。
- 11月5日~14日:十夜会(天台宗) - 天台宗による同様の法要。
その他にも彼岸会、盂蘭盆会、大施餓鬼、御印文頂戴など、善光寺では年中を通じて多くの仏教行事が開催され、信仰と伝統が今もなお息づいております。
伽藍について
善光寺は長野県を代表する歴史的な寺院であり、その伽藍(がらん)は多くの参拝者に深い感動を与えています。ここでは、善光寺の中心である本堂をはじめとする主要な建築物について詳しくご紹介いたします。
本堂(国宝)
善光寺本堂の概要
善光寺本堂は、東大寺の大仏殿に次ぐ規模を持つ、近世を代表する木造仏教建築です。屋根の広さは日本一とされており、その荘厳な姿は訪れる人々を魅了してやみません。建築費用はおよそ2万5000両にものぼり、全国で行われた出開帳によってまかなわれたと言われています。1953年には国宝に指定されました。
構造と特徴
現在の本堂は、宝永4年(1707年)に竣工し、幕府大棟梁・甲良宗賀によって設計されました。本堂は二階建てのように見えますが、建築様式上は「一重裳階付(いちじゅうもこしつき)」という形式です。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、屋根の形状は「撞木造(しゅもくづくり)」と呼ばれる独特な様式です。これは、入母屋造を丁字形に組み合わせたもので、建物の上から見ると屋根の大棟が丁字に交差しているように見えるのが特徴です。
平面構成は、正面5間・側面14間の本体(身舎)の周囲に1間幅の裳階を巡らせ、裳階を含めると正面7間・側面16間の規模になります。間口は約24メートル、奥行は約54メートル、棟の高さは約26メートルと非常に大きく、一般的な仏堂と比べて奥行きが深い構造です。
内部の構成
建物の南正面1間分は壁や扉のない吹き抜けで、その奥に4間分の「外陣」、さらに5間分の「内陣」が続きます。外陣と内陣の間が「中陣」、最奥部が「内々陣」と呼ばれています。
内々陣には、秘仏本尊である阿弥陀三尊像が安置された「瑠璃壇」があり、その前に常灯明(不滅の法灯)が灯されています。瑠璃壇は高さ160cm、幅91cmで、1789年に立川和四郎初代によって造られました。透かし彫りのある扉付きで、内部にはさらに厨子が設置され、本尊が赤地の金襴に包まれて安置されています。
中陣の仏像と装飾
中陣と内陣の間の欄間には「来迎の二十五菩薩」の像が配置され、右には地蔵菩薩、左には弥勒菩薩が鎮座し、中陣を見守っています。また、東側には「御三卿の間」があり、開山である本田善光、妻の弥生御前、子の善佐の像が厨子に安置されています。この厨子は寄棟造で本瓦形板葺きとなっており、国宝の附指定を受けています。
御戒壇巡り
本堂の東側から階段を下ると、真っ暗な板廊下を右回りに巡る「お戒壇巡り」が体験できます。この廊下は、本尊の真下を一周する構造になっており、途中にある錠前に触れることができれば極楽往生が約束されるという信仰があります。一方で、心がけの良くない者は錠前を掴めず犬になるという伝承もあります。
外陣の風景
外陣では、まず大きな台「妻戸台」が目を引きます。ここには太鼓などが置かれ、東側には松の枝が活けられています。これは親鸞上人が参詣した際に松の枝を捧げたことにちなんだものです。また、「閻魔王像」や「お賓頭盧さん(びんずる尊者像)」も安置されており、この像を撫でることで自分の患部の病が癒えると信じられています。
毎年1月6日の夜には「おびんずるまわし」という行事が行われ、この像を担いで堂内を巡ります。なお、新型コロナウイルス感染症拡大時には、感染防止のため像への接触が一時的に禁止され、お戒壇巡りも中止されました。
その他の建造物
山門(三門・重要文化財)
山門は寛延3年(1750年)に建立されました。正面には「善光寺」と記された額が掲げられており、書は公澄法親王によるものです。この額には鳩が5羽隠れており、「鳩字の額」と親しまれています。また、「善」の字が牛に見えるという説もあります。
山門の2階には、文殊菩薩騎獅像や四天王像、色鮮やかな障壁画、四国八十八ヶ所の分身仏などが安置されています。2007年の修復で屋根は創建当初の栩葺き(とちぶき)に復元されました。江戸から昭和にかけての参拝者の落書きも多く残っており、歴史的資料として貴重です。現在は常時2階への拝観が可能です。
経蔵(重要文化財)
経蔵は1759年に建立されました。五間四方の宝形造りで、中央には高さ約6メートル、重さ約5トンの輪蔵が設置されています。この輪蔵には鉄眼版『一切経』6771巻が収められており、輪蔵を時計回りに一周回すと、経典をすべて読んだのと同じ功徳が得られるとされています。
経蔵の入口には傅大士の像があり、内部には伝教大師と慈覚大師の像も安置されています。また、前には「輪廻塔」があり、石の輪を回すことで極楽往生の功徳を積むことができると信じられています。
日本忠霊殿・善光寺資料館
日本忠霊殿は1906年に建立され、1970年に現在の三重塔構造に再建されました。戊辰戦争から第二次世界大戦に至る戦没者の慰霊のための塔です。また、1階には善光寺の歴史資料や什物を展示する「善光寺資料館」が併設されています。
仁王門(登録有形文化財)
仁王門は1752年に建立されましたが、善光寺大地震により2度焼失し、1918年に再建されました。「定額山」の額は伏見宮貞愛親王の筆によるものです。仁王像および背後の三宝荒神・三面大黒天像は高村光雲・米原雲海の手によるもので、仁王像の配置が一般とは逆になっているのが特徴です。
鐘楼(登録有形文化財)
鐘楼は1853年に再建され、「南無阿弥陀仏」の六文字にちなみ、六本の柱で構成されています。内部の梵鐘は、1632年に鋳造されたものの、火災で失われ、1667年に再鋳造されました。現在でも鐘の音は境内に響き渡り、参拝者の心に静けさを与えています。