松代城は、長野県長野市松代町松代に位置する日本の歴史的な城です。もともとは海津城として知られており、「貝津城」や「茅津城(かやつじょう)」とも呼ばれていました。これは、かつてこの地に茅(かや)が多く生えていたことに由来すると伝えられています。
武田信玄の戦略拠点として名高く、川中島の戦いの舞台にもなったこの城は、戦国時代から江戸時代、そして近代に至るまで、幾度もの変遷を経ながら存在感を示してきました。
城の構造は輪郭式の平城で、千曲川の自然地形を活かした堅固な要塞として機能していました。現在は国の史跡にも指定されており、歴史と文化の重要な遺産として保存されています。
海津城の正確な築城年代は不明ですが、1559年(永禄2年)に築城が始まり、翌年には完成したと伝えられています。武田信玄が川中島地域で上杉謙信と争った際に、千曲川河畔に位置するこの城は重要な軍事拠点として整備されました。
『甲陽軍鑑』によると、信玄は北信濃の有力国衆である清野氏の館を接収し、築城を命じたのが名軍師として名高い山本勘助でした。築城には地元の豪族である屋代氏や香坂氏らが協力し、川中島四郡(更級郡、埴科郡、高井郡、水内郡)の国衆も関与していたと言われています。
1561年(永禄4年)の第四次川中島の戦いでは、武田方の城代・春日虎綱(高坂昌信)が籠城して上杉軍を迎え撃ち、八幡原での激戦へと発展しました。海津城はこの戦いにおいて極めて重要な役割を果たし、また地域支配の拠点としても機能しました。
1582年(天正10年)、武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣・森長可がこの地を治めました。彼は近隣の住民や武田遺臣の子弟を人質とし、海津城またはその周辺に住まわせたとされます。
同年6月に本能寺の変が発生すると、森長可は信濃を撤退し、海津城は無人となり、その後、上杉景勝によって支配されることになります。
1585年には須田満親が城代として配置され、1598年に上杉景勝が会津に移封されると、田丸直昌が海津城主となり、豊臣秀吉の直轄地として運営されました。この時期、城の構造には甲州流築城術が色濃く反映されており、丸馬出や三日月堀といった防御機構が採用されました。
1600年、田丸直昌に代わって森忠政が入封し、この時に海津城は「待城(まつしろ)」と改名されました。その後、松平忠輝、松平忠昌、酒井忠勝と続き、1622年に真田信之が入封すると、以後は真田家が城主を務めることになります。
松代城は松代藩の政庁となり、藩政の中心地として重要な役割を果たしました。しかし、善光寺門前町に商業が集中したため、松代城下町は商業都市としての発展は限定的でした。
1717年(享保2年)の火災では本丸、二の丸、三の丸が焼失しましたが、幕府からの借財により1718年には再建されました。1742年(寛保2年)の大水害や1847年(弘化4年)の善光寺地震などの災難にも見舞われましたが、そのたびに復興が進められました。
幕末には真田家の居館として「新御殿(真田邸)」が建築され、藩政の象徴としての役割を続けました。
1872年(明治5年)、松代城は廃城となり、その跡地は藩士に払い下げられて農地や宅地となりました。1873年には花の丸御殿が再び火災で焼失。多くの建物は失われました。
1879年(明治12年)には、旧花の丸跡に「松代城花之丸旧跡」の石碑が建てられ、近代以降もその歴史は静かに受け継がれてきました。
現在の松代城跡は、櫓台や堀、石垣などが復元され、歴史公園として整備されています。春には桜が咲き誇り、地域の人々に親しまれる散策スポットとなっています。また、城跡周辺には真田宝物館や真田邸などもあり、歴史散策に最適なエリアです。
松代城は、戦国期の戦略拠点としての海津城から、江戸時代の藩政中心地としての松代城へとその姿を変えながら、日本の歴史を見守ってきました。武田・上杉・豊臣・徳川といった各時代の有力大名が関わったこの城は、単なる城郭を超えた、歴史と文化の交差点であったと言えるでしょう。
今日、松代城跡は国指定史跡として整備され、観光地としても人気を博しています。訪れる人々に、時代を超えて語り継がれる歴史の深さと、往時の面影を今に伝えています。