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埴科古墳群

(はにしな こふんぐん)

千曲市に残る貴重な古墳群

埴科古墳群は、長野県千曲市に点在する古墳時代の重要な遺跡群であり、4つの前方後円墳を中心とした古墳群です。これらの古墳は、いずれも国の史跡に指定されており、歴史的価値が非常に高いものとされています。特に森将軍塚古墳有明山将軍塚古墳は、ふもとにある森将軍塚古墳館および長野県立歴史館とともに整備され、「科野の里歴史公園」として広く公開されています。

史跡指定の経緯と周辺の古墳群

昭和46年(1971年)には、森将軍塚古墳が国の史跡に指定されました。その後、平成19年(2007年)には有明山将軍塚古墳倉科将軍塚古墳土口将軍塚古墳の3基が追加で史跡指定を受け、現在の埴科古墳群として一括管理されています。

周辺にはこれら以外にも、斎場山古墳(妻女山古墳)や坂山古墳堂平古墳群笹崎山古墳北山古墳などが多数残されており、これらの古墳はおおむね4世紀末から6世紀初頭にかけて築造されたと推定されています。

森将軍塚古墳 ― 信濃を代表する前方後円墳

長野県最大級の前方後円墳

森将軍塚古墳(もりしょうぐんづかこふん)は、千曲市(旧更埴市)の森地区、大字森字大穴山に位置する、全長およそ100メートルを誇る巨大な前方後円墳です。長野県内で最大級の規模を持ち、古墳時代前期(4世紀末)の築造とされています。

古墳の概要と構造

森将軍塚古墳は、長野県で最大規模を誇る全長約100メートルの前方後円墳で、4世紀末に築かれたとされる古墳時代前期のものです。場所は千曲市森の有明山尾根上にあり、標高130~140メートルの急斜面に築かれたことにより、後円部は楕円形で、前方部との軸線がずれる特徴を持ちます。

墳丘の構造

墳丘は葺石で覆われ、三重の埴輪列が巡り、頂上部には人物や建物をかたどった形象埴輪が並べられていました。墳頂中央には、長さ15メートル、幅9.3メートル、深さ2.8メートルの大規模な穴が掘られ、その内部には東日本最大級の竪穴式石室が築かれていました。長さ7.6メートル、幅2メートル、高さ2.3メートルの石槨が存在し、その復元模型は古墳館で実物大で展示されています。

副葬品の発見

埋葬施設からは過去の盗掘によって多くが散逸しましたが、三角縁神獣鏡の破片や、近畿地方との関係が推測される埴輪類や土器、また剣・鉄鏃・玉類などが発見されています。これらは被葬者が高位の人物であったことを示し、ヤマト王権との繋がりを裏付ける貴重な資料となっています。

周辺の小古墳と埋葬施設

周囲からは13基の円墳や埴輪棺、組合式石棺、円筒棺など小型の埋葬施設が約100基検出されています。これらは6世紀ごろまでの追葬が行われた証拠であり、森将軍塚古墳が首長一族の奥都城(おくつき)であったと推測されます。

復元と公開

昭和46年(1971年)に国の史跡に指定されたのち、11年にわたる発掘・復元事業により、古墳時代当初の姿に忠実に復元されました。現在は一般公開され、教育施設としても活用されており、小学校の教科書でも写真付きで紹介されています。

その他の主な古墳

有明山将軍塚古墳

有明山将軍塚古墳は、森将軍塚古墳と同じ尾根上に築かれた前方後円墳で、全長約37メートルとやや小規模です。築造時期は古墳時代前期末から中期初頭と考えられており、発掘調査の後、現在は埋め戻されていて現地では見ることができません。

倉科将軍塚古墳

倉科将軍塚古墳は長野県内で3番目の規模となる全長83メートルの前方後円墳です。森将軍塚古墳より新しい時代、すなわち古墳時代中期に築かれたと推定されています。古墳は山道を登った先にあり、鷲尾城跡と隣接しており、中世には城郭の一部としても利用されたと考えられています。

土口将軍塚古墳

土口将軍塚古墳は、全長67メートルの前方後円墳で、倉科将軍塚古墳と同様に古墳時代中期の築造とされています。千曲市と長野市の境界に位置し、1982年から1986年にかけて両市が協力して発掘調査を実施しました。古墳は尾根上に築かれ、周辺にはその他の埋葬施設も確認されています。

交通アクセス

森将軍塚古墳館までのアクセス

森将軍塚古墳館から古墳まで

おわりに

埴科古墳群は、信濃国の成立やヤマト政権との関係を考察するうえで極めて貴重な遺跡群です。その中核を成す森将軍塚古墳は、規模・構造・副葬品の内容ともに信濃地域の首長墳にふさわしい姿を残しており、学術的・文化的にも高く評価されています。古代の歴史に思いを馳せながら散策できるこの地は、長野県を訪れる際のおすすめの歴史スポットのひとつです。

Information

名称
埴科古墳群
(はにしな こふんぐん)

長野市・戸隠・小布施

長野県