冠着山は、長野県千曲市と東筑摩郡筑北村にまたがる山で、標高は1,252メートルです。長野盆地の南西端に位置し、その美しい景観と豊かな自然で多くの人々に親しまれています。この山には、いくつかの異なる呼び名があり、冠山(冠嶽)や更科山、また坊城とも呼ばれます。さらに、地元では俗称として姨捨山(おばすてやま)やうばすてやまとも呼ばれており、これらの呼び名はこの地域に根強い文化や伝説に基づいています。
冠着山は、北部フォッサマグナの中央隆起帯と西部堆積区の境界部に位置しており、その地質は非常に興味深いものです。かつて海底に存在していた時代に堆積した砂岩や礫岩、凝灰岩などの第三紀層が積もり、その上に第四紀の貫入によって形成された安山岩質の溶岩ドームが広がっています。山頂付近は複輝石安山岩でできており、風雨による浸食から守られて、溶岩円頂丘(溶岩ドーム)として残っているのです。現在、この山頂では柱状節理などの地質学的な特徴も見ることができます。
山の最上部には、安山岩の層が堆積しており、風化や浸食に強い特徴を持っています。特に、東側の斜面では、柱状節理が見られ、これは岩が冷却される際に形成された自然の構造です。冠着山の地質学的な特徴は、過去にここで発生した火山活動や地震による変動を示しており、1847年の善光寺地震による崩落が伝えられています。この地震の影響を示す絵図は、真田宝物館に保存されています。
冠着山の名所の一つにボコ抱き岩があります。これは、特に松代群発地震後に崩落が進んだと言われており、かつてよりもかなり小さくなったものの、その風景には今も多くの訪問者を魅了しています。
山頂には冠着神社が祀られており、鳥居とトタン屋根の祠が立っています。祭神としては月夜見尊が祀られており、かつては権現社として信仰を集めていたとされています。毎年7月になると、蛍が舞う山頂にて、地元の氏子たちが集まり、御篭もりの祭りが行われます。また、高浜虚子の句碑も建てられており、「更級や姨捨山の月ぞこれ」の句が詠まれています。これらの文化的な背景が、冠着山の神聖さや歴史的な価値をさらに深めています。
冠着山の月に関する記録は、非常に古く、『古今和歌集』(905年)にその名が見られます。京都御所清涼殿には、全国各地の名所が描かれた襖絵があり、冠着山の月を詠んだ和歌も添えられていたと言われています。特に「おばすての やまぞしぐれる風見えて そよさらしなの 里のたかむら」という和歌が有名で、これは冠着山を望んだ千曲川対岸から詠まれたものと考えられています。
江戸時代の地図や絵図には、冠着山と姨捨山が別の山として描かれているものがあり、これらの山が明確に区別されていることがわかります。しかし、明治時代に入ると、塚田雅丈の活動により、「冠着山(姨捨山)」という名称が広まりました。この名称は、地元の人々や文化に深く根付いていったのです。
冠着山という名前にはいくつかの説があり、その由来は日本神話や地元の歴史に関係しています。まず、天照大神が隠れた天岩戸を手力男命が取り除いた際に、この地で冠を直したという伝説に由来しています。また、姨捨山という名前は、奈良時代以前にこの地に住んでいた小長谷部氏の名から転訛したとされています。
更科山という呼び名もありますが、これはこの山が更級郡の中央に位置していることから来ていると言われています。また、坊城という名前は、山の形が坊主の頭に似ていることや、かつて狼煙城としての役割を果たしていた伝説に由来しています。
冠着山には、棄老伝説も伝えられています。この伝説は、老人を山に捨てて生き延びさせるという話であり、『大和物語』や『謡曲』などの古典文学に取り上げられてきました。また、この伝説が長野県の文化に深く影響を与え、姨捨山の名が広まる背景にもなったと言われています。
冠着山の麓に広がる姨捨棚田は、その美しい景観で有名です。この棚田は、長野県千曲市八幡に位置し、古くから「田毎月」という名所として親しまれてきました。棚田の水田に月が映り込む様子は、まるで一枚一枚の田に満月が浮かぶようで、その美しさは言葉で表現しきれないほどです。
姨捨棚田では、田植えの時期になると、水を張った棚田に満月が映り込み、その幻想的な景色は古くから「田毎月」として有名です。歌川広重の浮世絵『六十余州名所図会』にも描かれており、この景観は長年、多くの観光客を魅了しています。
姨捨棚田の魅力は、ただ美しいだけでなく、地元の人々が守り育ててきた歴史と文化の深さにもあります。この棚田が映す月の美しさは、まさに日本の風物詩と言えるでしょう。