長野県のほぼ中央、標高約1,630メートルの高原地帯に広がる八島湿原(八島ヶ原湿原)は、霧ヶ峰高原の北西部に位置する日本を代表する高層湿原です。広大な草原が続く霧ヶ峰の中でも、とりわけ自然の豊かさと学術的価値の高さで知られ、1939年(昭和14年)には国の天然記念物に指定されました。さらに文化財としても登録され、現在に至るまで大切に保護されています。
その歴史はおよそ12,000年前にさかのぼるとされ、日本最古級の高層湿原として知られています。1年に約1ミリずつ泥炭が積み重なり、現在では泥炭層の厚さが約8.05メートルにも達しています。まさに「生きている大地」ともいえる存在であり、長い年月をかけて形成されてきた自然の営みを体感できる貴重な場所です。
霧ヶ峰(標高1,925メートル)は、八ヶ岳中信高原国定公園の中心部に広がる高原地帯で、なだらかな丘陵と草原が続く開放的な景観が魅力です。この霧ヶ峰には、八島ヶ原湿原、車山湿原、踊場湿原(池のくるみ)の三つの湿原があり、それぞれが貴重な湿原植物群落として天然記念物に指定されています。
その中でも最大規模を誇るのが八島ヶ原湿原で、総面積は約43.2ヘクタール、周囲は約3.7キロメートル。諏訪市と下諏訪町にまたがって広がり、ビーナスライン沿いというアクセスの良さも相まって、多くの自然愛好家や観光客が訪れます。
八島ヶ原湿原は、日本の高層湿原の南限にあたる非常に貴重な存在です。高層湿原とは、もともと湖沼であった場所が長い年月をかけて湿原へと変化し、さらに泥炭が蓄積して周囲よりも盛り上がった状態になったものを指します。
はじまりは小さな湖でした。周囲から土砂が流れ込み、水生植物が繁茂し、やがて湖は次第に埋められていきます。寒冷な高地では植物の遺体が分解されにくく、腐敗せずに泥炭として堆積します。これが湿原形成の第一段階です。
初期段階の湿原は低層湿原と呼ばれ、地下水の供給を受ける比較的富栄養な環境で、ヨシやガマ、スゲ類などが生育します。その後、泥炭の蓄積が進むと地表は周囲より高まり、地下水の供給が減少し、雨水のみで維持される貧栄養かつ酸性の環境へと変化します。これが高層湿原です。
高層湿原の主役はミズゴケです。八島ヶ原湿原では18種類ものミズゴケが確認されており、その多様性は日本最大級の釧路湿原にも匹敵するといわれています。ミズゴケは小さな塊となって生長し、ブルト(小凸地)やシュレンケ(小凹地)と呼ばれる起伏を形成します。これが繰り返されることで、湿原全体がゆるやかに盛り上がる独特の景観が生まれます。
八島ヶ原湿原の泥炭層は、低層部ではヨシ・スゲ泥炭、中間部ではヌマガヤ湿原、高層部ではミズゴケ湿原と、はっきりとした層構造を持っています。この明瞭な断面は学術的にも非常に価値が高く、研究対象としても重要視されています。
八島湿原周辺では年間約360種類もの植物が確認されており、その中には「キリガミネ」の名を冠する固有種も含まれます。厳しい自然環境の中で可憐に咲く花々は、訪れる人々の心を和ませてくれます。
6月には鮮やかな橙色のレンゲツツジが高原を彩り、7月には霧ヶ峰を代表する花ニッコウキスゲが一斉に咲き誇ります。湿原一面が黄色に染まる光景は圧巻で、多くの写真愛好家が訪れる季節でもあります。
春から夏にかけてはワタスゲ、ツルコケモモ、ヒメシャクナゲなどが可憐な姿を見せ、湿原は色とりどりの花で満たされます。初秋になると草紅葉が広がり、やわらかな色合いに包まれた風情ある景観が楽しめます。
豊かな自然環境は、多様な生き物たちのすみかでもあります。湿原ではシュレーゲルアオガエルなどの両生類をはじめ、多くの昆虫や野鳥が観察できます。過酷な高地環境に適応した動植物の姿は、自然のたくましさを感じさせます。
八島湿原では、湿原をぐるりと一周できる整備された遊歩道が設けられており、初心者でも安心して散策できます。周遊距離は約3.7キロメートル、ゆっくり歩いて約1.5~2時間ほど。ご夫婦やご家族連れにもおすすめのコースです。
晴れた日には池の水面に空や雲、周囲の山々が映り込み、爽快な高原風景が広がります。一方、霧が立ち込める日は幻想的な雰囲気に包まれ、同じ場所とは思えないほど表情を変えます。時間や天候によってまったく異なる景観を楽しめるのも魅力です。
遠くの山並みに目を奪われがちですが、足元にも注目してみてください。淡い色のアザミや小さな湿原植物がひっそりと咲き、繊細な自然の美しさを教えてくれます。
体力に自信のある方は、ここから車山山頂を目指すルートや霧ヶ峰高原へと続くトレッキングコースへ足を延ばすのもおすすめです。
散策の拠点としてぜひ立ち寄りたいのが下諏訪町立 八島ビジターセンターあざみ館です。館内では湿原の断面模型を用いた成り立ちの解説や、高原に生きる動物・鳥類・植物の紹介が行われています。
2階研究室では四季折々の自然の様子を映像で紹介しており、最新の自然情報を得ることができます。トレッキング前に立ち寄れば理解が深まり、散策がより充実したものとなるでしょう。
八島ヶ原湿原は、12,000年という歳月をかけて育まれてきた自然遺産です。しかし近年では周辺の森林化や降雨量の変化により乾燥化が進むなど、環境変化の影響も指摘されています。
だからこそ、この湿原を訪れる私たち一人ひとりが自然への配慮を忘れず、遊歩道を外れない、植物を採取しないなどのマナーを守ることが大切です。
太古から続く湿原の息づかいを感じながら歩く時間は、日常を離れ、自然と向き合う貴重なひとときとなります。八島湿原は、霧ヶ峰高原の壮大な景観とともに、日本の自然の奥深さを実感できる特別な場所です。