小野のシダレグリ自生地は、長野県上伊那郡辰野町小野地区に広がる、全国的にも非常に珍しい枝垂れ栗(シダレグリ)の群生地です。標高950〜1,200メートルの山あいにおよそ800本ものシダレグリが自生し、幻想的な景観をつくり出しています。その独特の樹形と自然の神秘から、古くは「天狗の森」と呼ばれ、人々に畏れ敬われてきた場所でもあります。
この自生地は、1920年(大正9年)7月17日に国の天然記念物として指定されました。当時の名称は「小野村枝垂栗自生地」でしたが、1957年(昭和32年)に現在の「小野のシダレグリ自生地」と改称されています。全国的に見てもシダレグリの自生地は数か所しか存在せず、その中でも小野の群生は約800本という日本最大規模を誇ります。
一般的なクリの木とは異なり、この森のシダレグリは枝が垂れ下がり、幹や枝がねじれ、まるで生き物のような動きを見せます。特に冬季は落葉によって枝の曲がりくねった姿がはっきりと現れ、その異形の美しさに多くの見学者が魅了されます。最大のものでは幹の周囲が4メートルを超える巨木もあり、長い年月を経た自然の力を感じさせます。
小野のシダレグリ自生地は、長野県のほぼ中央に位置する辰野町と岡谷市の境界にある小野峠の西側、楡沢(にれさわ)と呼ばれる沢の最上流部に広がっています。JR中央本線(辰野支線)小野駅から東へ約3キロメートルの場所にあり、車では10分ほどで到着します。天然記念物指定地の面積は約3.4ヘクタールに及び、山の斜面に沿ってシダレグリの森が続いています。
この地は、江戸時代に三州街道の宿場町であった小野宿と諏訪地域を結ぶ街道沿いに位置していたため、人々の往来が絶えませんでした。そうした中で、この奇妙な樹形のクリの群生は古くから人々に知られ、やがて伝説が生まれることになります。
江戸時代、人々はこの異様な姿の木々を見て、天狗が枝を曲げたのだと信じていました。特に「天狗が住む森」「天狗のクリ」として恐れられ、近隣の住民たちは長らく近づくことを避けていたと伝わります。実際に、宝暦3年(1753年)に書かれた地誌『千曲之真砂』には「伊那郡南小野村天狗森枝垂栗之事」と題する記述が残されており、江戸中期にはすでに特異な樹形が知られていたことが分かります。
また、地元では「天狗が栗の実を取りやすくするために枝を垂らした」という伝承もあり、人々はこの森を神聖な場所とみなしてきました。シダレグリの実は非常に小さく、人の小指の爪ほどの大きさしかなく、食用には適しません。そのため採取されることもなく、長年にわたって自然のままの姿が保たれてきたのです。このことが、現在のような純林の形成につながったと考えられています。
シダレグリ(学名:Castanea crenata var. pendula Makino)は、ブナ科クリ属の変種であり、通常のニホングリ(Castanea crenata Sieb. et Zucc)からの突然変異によって生じたものとされています。多くの場合、単木として自生することが多く、小野のように群生して純林を形成している例は極めて稀です。
この木の特徴は、一般的な植物とは異なり、幹の頂芽(先端の芽)が数年で枯れてしまうことです。その結果、側芽(枝の途中の芽)が成長していくため、枝が四方に広がり、垂れ下がる独特の姿になります。まるで大きな傘のように枝を広げた姿は圧巻で、訪れる人に強い印象を残します。
日本国内で確認されているシダレグリの自生地は、福島県いわき市、長野県塩尻市北小野、長野県辰野町小野、岐阜県下呂市の4か所のみです。このうち、国の天然記念物に指定されているのは辰野町小野と下呂市宮地の2か所であり、他の2か所は県や市の天然記念物として保護されています。
中でも小野の自生地は、規模・本数ともに最大級で、最も保存状態が良好です。自然環境が良く保たれており、訪れる人々が四季を通じてその美しさを楽しめるよう整備されています。
小野のシダレグリ自生地を含む一帯は、1964年(昭和39年)6月25日に塩嶺王城県立自然公園の一部として指定され、辰野町が管理運営を行っています。周囲にはキャンプ場や遊歩道が整備され、「しだれ栗森林公園」として観光客に親しまれています。春には新緑、秋には紅葉、冬には雪化粧と、季節ごとに異なる表情を見せるため、自然散策や写真撮影にも最適です。
しかし、樹齢の進んだ個体も多く、枯死寸前の木も確認されています。そのため、辰野町では毎年1回、地元住民とともに下草刈りを実施し、自然に発生した若木の中から枝垂れる性質を持つ個体を選抜して残すなど、保全活動が続けられています。
2005年(平成17年)には、果樹研究所遺伝育種部(現:農研機構果樹茶業研究部門)によって、小野のシダレグリを中心に長野県内の2町村で合計21個体の遺伝資源が採取されました。研究では、枝の垂れ方が傘状のもの、柳のようにしなやかに垂れるもの、中間的なものなど、多様なタイプが確認されました。
採取された穂木は、茨城県つくば市の果樹試験場にて接ぎ木苗として育成・保存され、シダレグリの特徴や遺伝的性質の研究が進められています。この取り組みは、天然記念物指定区域の保全だけでなく、将来的な後継樹育成や種の保存に大きく寄与しています。
所在地:長野県上伊那郡辰野町小野5983-1
交通手段:
駐車場や遊歩道も整備されており、春から秋にかけては多くの観光客でにぎわいます。ガイドツアーや自然観察会も行われており、植物や自然環境に関心のある人々にとっても貴重な学びの場となっています。
小野のシダレグリ自生地は、単なる植物群落ではなく、自然の力と人々の信仰が融合した文化的・生態的遺産です。天狗伝説に彩られたこの森には、長い年月の中で変わらずに続く自然の営みと、人々の敬意が息づいています。
訪れる人は、静寂の中に立ち並ぶ異形の木々を前に、自然の不思議と生命の力強さを感じることでしょう。辰野町を訪れた際には、ぜひこの神秘の森を歩き、悠久の時を刻むシダレグリたちに出会ってみてください。