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柿蔭山房(島木赤彦住居)

(しいん さんぼう)

柿蔭山房は、長野県下諏訪町高木に残る、アララギ派を代表する歌人・島木赤彦(しまき あかひこ/本名 久保田俊彦)の旧宅です。赤彦が晩年を過ごし、多くの名歌を生み出した場所として知られ、文学史上きわめて貴重な建物でもあります。

この住居は、江戸時代後期の文化・文政年間(1804~1829年)に建てられたと推定される茅葺き屋根の母屋と土蔵からなり、当時の姿をほぼそのまま今に伝えています。昭和54年(1979年)に久保田家より下諏訪町へ寄贈され、現在は一般公開されています。

建物の特徴と歴史的価値

母屋は梁行7間半(約13.5メートル)、桁行6間(約10.8メートル)という堂々たる規模を誇ります。内部には土間を通った奥に書院造りの八畳間があり、ここが赤彦の書斎でした。この座敷から眺めた諏訪湖の風景や家族との日常を詠んだ歌は400首以上にのぼるといわれています。

久保田家はもともと高島藩に仕えた散居武士の家柄で、承応2年(1653年)にこの地へ移り住んだと伝えられています。農業を営みながら藩に仕えた家であり、士族住宅としての歴史的価値も高い建物です。土蔵には「文政二年」の銘が残り、当時の建築技術を知るうえでも重要な文化財といえます。

「柿蔭山房」の名の由来

下諏訪町高木の集落は、古くから柿の木が多い地域でした。赤彦は柿の実の赤い色をことのほか愛し、自らを「柿の村人」「柿の村舎」と号した時期もあります。大正8~9年(1919~1920年)頃、この住まいを「柿蔭山房」と名付けました。

敷地の一角には御所柿の大木があり、その実りの美しさは赤彦の創作意欲を刺激しました。秋になると、色づいた柿の実と茅葺き屋根の山房が織りなす風景は格別で、歌人の心情と重なる情趣深い光景が広がります。遺歌集の題名『柿蔭集』にも、この家への深い愛着が込められています。

島木赤彦の生涯と文学

島木赤彦(1876~1926年)は、明治・大正期を代表するアララギ派の歌人です。長野県に生まれ、若くして文学に親しみ、やがて伊藤左千夫に師事しました。1909年には自身の歌誌『比牟呂』を『アララギ』に合流させ、斎藤茂吉らと並ぶ中心的存在として活躍します。

アララギ派の指導者として

赤彦は、写生に基づく真摯な作歌態度を重んじ、「鍛錬道」や「一心集中」といった歌論を提唱しました。対象に真っ直ぐ向き合い、心を集中させることで真実の表現に到達するという姿勢は、多くの後進に影響を与えました。

大正3年(1914年)には『アララギ』再建のため上京し、編集責任者として尽力します。その後も約12年間にわたり同誌を支え続け、日本近代短歌史に大きな足跡を残しました。

晩年と最期

赤彦は大正15年(1926年)3月27日、この柿蔭山房において胃癌のため51歳で亡くなりました。ここは単なる住居ではなく、彼の創作活動の本拠地であり、人生の終焉の地でもあります。隣室から聞こえる子どもたちの声を詠んだ歌には、生への深い愛惜がにじんでいます。

童謡と教育者としての顔

赤彦は歌人であると同時に教育者でもありました。長年小学校や高等女学校で教鞭を執り、教育論を積極的に発表しました。また、大正期には童謡創作にも取り組み、「からす」「つらら」などの作品を残しています。茅葺き屋根から下がるつららを詠んだ童謡も、この家で生まれました。

彼は「質素純白な童謡」を理想とし、子どもに向き合う真摯な姿勢を大切にしました。その精神は、短歌と同じく自然と人間の調和を重んじるものでした。

公開情報とアクセス

柿蔭山房は、7月から10月までの土日祝日に公開されており、入館料は無料です。静かな集落の中で、赤彦の息遣いを感じながら往時の暮らしを体感することができます。

交通アクセス

お車の場合は、長野自動車道岡谷ICから約20分です。
公共交通機関をご利用の場合は、JR中央本線下諏訪駅から町営バス「あざみ号」高木・高浜線に乗車し、「高木公民館前」(フリー乗降区間)で下車、徒歩約1分です。

文学と風景が溶け合う場所

柿蔭山房は、単なる文学史跡ではありません。諏訪の自然、柿の実の赤、茅葺き屋根の佇まい――それらが一体となり、赤彦の歌の世界を今も静かに語りかけています。下諏訪町を訪れた際には、ぜひこの山房を訪ね、明治・大正の歌人が見つめた風景に思いを重ねてみてはいかがでしょうか。

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名称
柿蔭山房(島木赤彦住居)
(しいん さんぼう)

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