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塩尻宿

(しおじりしゅく)

中山道の要衝に息づく歴史と文化

塩尻宿は、中山道六十九次のうち江戸から数えて三十番目に位置する宿場町で、現在の長野県塩尻市塩尻町にあります。交通の要衝として栄え、江戸時代を通じて人と物の往来が盛んに行われた場所です。周囲には山々が連なり、諏訪・松本・伊那・木曽など、各地を結ぶ分岐点として発展しました。

宿場の成立と発展

塩尻宿は永禄6年(1563年)、戦国大名・武田氏によって塩尻峠の西側に整備されたのが始まりとされています。当初、中山道は現在のルートではなく、下諏訪宿から小野峠、小野宿、牛首峠を経て桜沢へ抜ける道が使われていました。しかしこの区間は険しい山道が続く難所であったため、後に大久保長安の手によって経路が変更され、塩尻宿が新たな宿場として整備されました。

開設当初、塩尻宿は松本藩の玄関口として大いに栄えました。その後、享保10年(1725年)以降は幕府直轄地(天領)となり、塩尻陣屋が設置されます。この陣屋は後に尾張藩の塩尻取締所、さらに明治期には伊那県塩尻局として利用され、行政の中心地としての役割を果たしました。

交通の要衝としての塩尻宿

塩尻宿は中山道だけでなく、「塩の道」と呼ばれた千国街道三州街道(伊那・飯田方面)との分岐点にあたり、物流の中継地として重要な役割を担いました。三河国から運ばれた「南塩」、そして越後国糸魚川から安曇野を経由して届く「北塩」がこの地で交わり、塩尻の地名の由来ともなっています。

宿場の構造と暮らし

宿場は上町・仲町・下町に分かれ、特に仲町には本陣・脇本陣・問屋場が集中していました。『中山道宿村大概帳』(天保14年・1843年)によれば、塩尻宿には166軒の家屋があり、人口は794人。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は75軒と、中山道でも有数の規模を誇りました。本陣は川上家が代々務めており、明治13年(1880年)には明治天皇の巡幸を迎え、その記念碑が今も残されています。

文化と民謡 ― 塩尻甚句の響き

中山道沿いの宿場には、多くの旅人たちが唄った民謡が残されています。塩尻宿にも「塩尻甚句」という民謡が伝わり、「諏訪のおじさん どじょう魚籠提げて 花の塩尻 とぼとぼと」や「行こか塩尻 帰ろか洗馬へ ここが思案の桔梗ヶ原」など、旅の哀愁と宿場の風情を感じさせる歌詞が今も語り継がれています。

史跡・名所を巡る

平出一里塚

街道沿いには、北側と南側に一里塚が残されており、往時の中山道の姿を今に伝えています。塩尻宿から洗馬宿に向かう道中の風景には、旅人が歩いた道の名残を随所に感じることができます。

本陣跡・脇本陣跡・堀内家住宅

塩尻宿には、今も本陣跡脇本陣跡が残り、歴史散策の見どころとなっています。特に堀内家住宅は、妻入りの本棟造りで屋根の「雀おどり」が特徴的な建物で、国の重要文化財に指定されています。当時の宿場建築の姿を今に残す貴重な文化遺産です。

阿禮神社(あれいじんじゃ)

塩尻宿の西端には、古くから地域の守護神として信仰を集める阿禮神社があります。本殿は三間社流造りで、隣り合う社殿の間には明神平の奥社を遥拝するための扉口が設けられるなど、独特の構造をしています。社伝によれば、古代の東山道の宿駅「覚志駅」がこの神社の付近に存在したとも言われています。

永福寺(えいふくじ)

宿場の東端には永福寺があり、その本尊は天平9年(737年)に行基が刻んだと伝わる馬頭観音です。大永元年(1521年)、木曽義仲の子孫・木曽義方が義仲の菩提を弔うために創建し、のちに宿場整備の際に現在地に移されました。九代将軍・徳川家重の幼名「長福丸」を避けて「永福寺」と改名され、現在も地域の信仰を集めています。

周辺の史跡と見どころ

平出遺跡・平出博物館

塩尻宿から少し離れた場所には、国の史跡に指定されている平出遺跡があります。縄文時代から平安時代にかけての複合遺跡で、竪穴住居や古代の建物が復元され、当時の生活の様子を体感できます。隣接する塩尻市立平出博物館では、出土品や模型展示を通して塩尻の歴史を深く学ぶことができます。

塩尻宿を訪れる魅力

現代の塩尻宿周辺には、かつての宿場の雰囲気を感じさせる町並みや文化財が点在しており、歴史散策に最適なエリアです。また、近くにはワイナリーや伝統工芸の施設も多く、観光と文化体験を組み合わせて楽しむことができます。

かつて多くの旅人が足を止め、旅の疲れを癒やした塩尻宿。その面影は今も街のあちこちに残り、静かに往時の繁栄を物語っています。古道を歩き、歴史を感じながら、信州塩尻の魅力をゆっくりと味わってみてはいかがでしょうか。

Information

名称
塩尻宿
(しおじりしゅく)

松本・上高地・塩尻

長野県