長野縣護國神社は、長野県松本市美須々に鎮座する由緒ある神社であり、明治維新から第二次世界大戦までの国難に殉じた長野県出身の英霊を祀っています。その厳かな佇まいと静けさの中には、祖国を思い命を捧げた人々への深い敬意と感謝の心が息づいており、訪れる人々に平和の尊さを静かに語りかけています。
長野縣護國神社の歴史は、明治維新直後の戊辰戦争にさかのぼります。戦で命を落とした兵士の霊を慰めるため、明治元年(1868年)に信濃国各地で「招魂社(しょうこんしゃ)」が建立されました。松代藩・岩村田藩・須坂藩をはじめ、のちには田口(奥殿藩)、上伊那(高遠藩)、諏訪(諏訪藩)、信濃(長野市)などにも同様の社が造られ、地域ごとに戦没者を祀る場として大切に守られてきました。
その後、時代が進み、日清・日露戦争といった新たな国難が訪れる中で、長野県全体の英霊を祀る社を設けようという機運が高まり、昭和9年(1934年)に全県的な招魂社の建立計画が立てられました。この構想こそが、現在の長野縣護國神社の礎となったのです。
昭和13年(1938年)11月、明治天皇の御思召により、長野県招魂社として仮社殿が創建されました。これは戊辰戦争以来のすべての戦没者の御霊を慰めるためのものであり、県民の心の拠り所として多くの人々が参拝に訪れました。
翌昭和14年(1939年)3月には「長野縣護國神社」と改称され、4月1日には内務大臣指定の護国神社として正式に認定されました。さらに、昭和17年(1942年)には社殿や社務所、三つの鳥居が完成し、壮麗な社殿が美須々の地に姿を現しました。この時期に制定された松本市歌(作詞・高野辰之)の三番にも「くにを護りの社殿は聳ゆ」と詠まれ、神社が地域の誇りとして人々に深く浸透していたことがうかがえます。
第二次世界大戦後、護国神社という名称が軍国主義と結びつけられることを避けるため、一時期は信濃国の枕詞に由来する「美須々之宮(みすずのみや)」と改称されました。これは神社の存続を願う関係者たちの強い思いによるものであり、戦後の混乱期にあっても英霊への祈りを絶やさない工夫のひとつでした。
その後、昭和32年(1957年)4月に神社本庁の別表神社に指定され、正式に「長野縣護國神社」の名が復活しました。今日に至るまで、県内外から多くの人々が訪れ、祖国を護った人々への感謝を捧げています。
約一万坪の広大な境内は、「美須々の森(みすずのもり)」の名で市民に親しまれています。豊かな緑に囲まれ、四季折々の自然が楽しめるこの地は、松本市内でも有数の静かな癒しのスポットです。木々の間を抜ける風の音、鳥のさえずりが響く穏やかな空間は、参拝客や市民の憩いの場として愛されています。
また、境内には戦没者の慰霊碑や記念碑が点在し、それぞれの碑には多くの祈りと想いが込められています。例年、春と秋には慰霊祭が執り行われ、県民が一堂に会して英霊に感謝と哀悼の誠を捧げます。
長野縣護國神社は、単なる戦没者慰霊の場ではなく、平和の尊さを次の世代に伝える大切な場所でもあります。明治維新から現代に至るまでの歴史を背負いながら、今もなお「感謝」と「平和」の祈りを絶やすことなく続けています。
美須々の静かな森に佇むこの神社を訪れれば、時代を超えて受け継がれてきた祈りの心に触れることができるでしょう。そしてその穏やかな時間の中で、過去と現在、そして未来を結ぶ大切な意味を感じ取ることができるに違いありません。