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小岩嶽城

(こいわたけじょう)

安曇野の山上に眠る戦国の記憶

小岩嶽城は、長野県安曇野市に位置する中世の山城で、戦国時代に仁科氏の一族である古厩(ふるまや)氏が治めていた城として知られています。信濃国安曇郡小岩嶽に築かれたこの城は、現在は安曇野市指定史跡として整備され、「小岩嶽城址公園」としてその姿を今に伝えています。かつての戦いの舞台は、現在では美しい自然と歴史を感じられる散策地として多くの人々に親しまれています。

築城とその背景 ― 戦乱の世に生まれた山城

小岩嶽城の築城は大永2年(1522年)、仁科盛国によって行われたと伝えられています。築城地は、安曇郡穂高有明の古厩郷。仁科氏は当時、信濃守護・小笠原氏と幾度も抗争を繰り返し、やがて従属関係を結びながらも、その動向を警戒し続けていたといわれます。そのため、小岩嶽城は防衛拠点としての性格が強く、山頂を中心に堅固な防御構造を備えていました。

武田信玄の侵攻と小岩嶽城の最期

天文年間(1532年~1555年)になると、甲斐の武田晴信(のちの武田信玄)が信濃国へ侵攻を開始しました。天文21年(1552年)8月、武田軍はおよそ3,000人の兵を率いて小岩嶽城を包囲。城主・小岩盛親を中心とする約500人の兵が果敢に抗戦しました。およそ3か月に及ぶ籠城戦の末、ついに盛親は自刃し、城は落城したと伝えられます。この戦いは、仁科一族にとって大きな節目となり、永禄4年(1561年)には仁科氏宗家も滅亡。安曇野の地における仁科勢力の終焉を迎えました。

その後の支配と廃城の道

小岩嶽城が落ちたのち、この地域の領主となったのは古厩氏で、武田氏に従属し、森城主・仁科盛信の配下に入りました。しかし、武田氏が天正10年(1582年)に滅亡すると、安曇野一帯は上杉景勝の家臣・市川信房に与えられます。のちに小笠原貞慶が旧領を回復し、古厩盛勝もこれに従いました。ところが天正11年(1583年)、盛勝は上杉方と内通した疑いをかけられ、小笠原氏によって成敗されたといわれます。この事件を境に小岩嶽城はその役目を終え、古厩城とともに廃城となったと考えられています。

城跡の特徴と見どころ

現在の小岩嶽城跡は「小岩嶽城址公園」として整備されており、山上には模擬門や櫓を模した展望台が設けられています。城跡は山上と山麓の両方に遺構が確認されており、戦国期の山城の構造を今に伝える貴重な史跡です。

山上の遺構

山上部分には大小合わせて50段以上の曲輪(くるわ)が連なり、北の尾根を中心に削平地が広がっています。また、西の尾根には複数の竪堀(たてぼり)が連続して配置され、防御性を高める工夫が見られます。これらの遺構は、限られた兵力でも持ちこたえるための知恵が詰まった構造といえるでしょう。

山麓の遺構

山麓部には、土塁石垣虎口(城の出入口)などが残されています。石垣は自然石を積み上げた「野面積(のづらづみ)」と呼ばれる手法で築かれ、素朴ながら力強い印象を与えます。また、山麓を囲むように幅約15メートル・深さ約7メートルの空堀がめぐり、横矢をかけるための折れがつけられています。このような構造は、敵の侵入を防ぐための高い戦略性を示しています。

復元建造物と記念碑

公園内には木造の櫓門や石垣の上に築かれた展望台があり、当時の城の雰囲気を感じることができます。展望台からは安曇野の美しい田園風景を一望でき、戦国時代の山城がいかに周囲を見渡せる要害の地に築かれたかが実感できます。さらに、武田軍との戦いで命を落とした兵士たちを弔う戦没者慰霊碑も建てられ、訪れる人々に静かな感動を与えています。

アクセス情報

小岩嶽城址公園へは、JR大糸線の穂高駅から安曇野周遊バスに乗り、「小岩岳別荘入口」バス停で下車し、徒歩約20分で到着します。車の場合は、長野自動車道・安曇野インターチェンジから約30分ほど。無料の駐車場も整備されており、気軽に訪れることができます。

おわりに ― 安曇野の山に残る静かな歴史の声

小岩嶽城は、戦国の激動を生きた人々の記憶を今に伝える貴重な史跡です。苔むした石垣や風に揺れる松林の中に立つと、かつての戦乱の時代に思いを馳せることができるでしょう。安曇野の豊かな自然とともに、歴史の息づく小岩嶽城址公園を訪れてみてはいかがでしょうか。

Information

名称
小岩嶽城
(こいわたけじょう)

安曇野・白馬

長野県