大山田神社は、長野県下伊那郡下條村陽皐(ひさわ)に鎮座する、由緒ある古社です。延喜式に記載された式内社であり、下伊那地域にはわずか二社しか存在しない極めて貴重な神社の一つです。旧社格は郷社に列せられ、古来より地域の人々の信仰を集めてきました。
境内は豊かな自然に囲まれ、神社建築・歴史・民俗芸能・植物相のいずれの面においても高い価値を有しています。とりわけ、室町時代に建立された相殿二社殿は国の重要文化財に指定されており、建築史上も注目される存在です。
大山田神社は、延長5年(927年)に成立した『延喜式』神名帳に名を連ねる古社で、その創建は奈良時代末期から平安時代初期に遡ると推定されています。ただし、現在の鎮座地が当初からの場所であったかについては確証がなく、いくつかの移動説が伝えられています。
現在の祭神構成は、江戸時代中期に整えられたものです。
主殿:大己貴命(おおなむちのみこと/大国主命)
相殿:応神天皇(八幡神)
相殿:八郎明神(鎮西八郎源為朝)
大山田神社の社殿は、細長い覆屋の中に三棟が並ぶ独特の構成をとっています。中央に主神・大山田神を祀る本殿が置かれ、向かって右に応神天皇社本殿、左に鎮西八郎為朝社本殿が配置されています。いずれも一間社流造・こけら葺という、簡素ながらも洗練された様式を備えています。
応神天皇社本殿は、向拝の木鼻の形状や蟇股の彫刻、本殿内部に作り付けの厨子を備える点など、当時の中央様式を色濃く伝えています。梁行を二間とし、前面の柱間に扉を設ける点が大きな特徴です。
桁に記された墨書や修理棟札から、永正3年(1506年)頃の造立と考えられており、室町時代後期の神社建築を今に伝える貴重な遺構です。
鎮西八郎為朝社本殿は、規模こそ応神天皇社と同等ですが、意匠には独自性が見られます。向拝の木鼻は抽象的で、虹梁には渦や若葉の絵様が施され、蟇股の彫刻も左右非対称となっています。側面に扉を設けない簡素な造りも特徴です。
棟札から、慶安元年(1650年)に再建されたと推定され、江戸初期の建築技法と信仰の変遷を知る手がかりとなっています。
永正年間に建立された相殿二社殿は、その高い歴史的・建築的価値が認められ、明治45年(1912年)に国の重要文化財(当時は特別保護建造物)に指定されました。昭和30年(1955年)には両社殿を統合し、「大山田神社二棟」として指定されています。
室町時代初期、武田氏の支流である下條氏が伊那郡に勢力を伸ばすと、大山田神社は氏神的存在として厚く信仰されました。永正4年(1507年)には、下條氏7代当主・家氏が京都から宮大工吉村和泉守一門を招き、八幡社殿や諏訪社殿を造営させています。
下條氏没落後も信仰は衰えることなく、慶安2年(1649年)には徳川家光から10石の朱印状が与えられ、幕末まで代々将軍の朱印を受ける格式ある神社となりました。
境内の社叢は長野県自然100選に選ばれており、南限・北限にあたる植物約280種が繁茂する、植物学上きわめて貴重な場所です。
中でもひときわ目を引くのが、ご神木として崇敬されてきた大杉です。樹高約45メートル、根囲11.5メートル、推定樹齢800年とされ、下伊那郡内でも屈指の巨木として知られています。
大山田神社には、約300年前から伝わるギョウド獅子舞が奉納されています。この獅子舞は東海地方の影響を受けた神楽獅子の系統に属し、拝殿で奇妙な面を付けた神主役「ヘエオイ」と獅子が掛け合う独特の演出が特徴です。
その姿から別名「蛇踊り」とも呼ばれ、長野県内でも極めて珍しい民俗芸能として、現在も秋の例祭で受け継がれています。
・鳥居
・石段
・拝殿
・神木(大杉)
これらの要素が一体となり、歴史と自然、信仰が調和した静謐な空間を形成しています。
大山田神社は、国指定重要文化財の社殿と豊かな社叢、そして今も息づく伝統芸能を同時に体感できる、下伊那屈指の文化的景勝地です。四季折々に表情を変える境内は、歴史散策や自然観察にも適しており、訪れる人々に深い感動を与えてくれます。
静かな山里に佇むこの古社は、長い年月を経て受け継がれてきた信仰と文化を、今なお私たちに語りかけています。