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光明寺(飯田市)

(こうみょうじ)

光明寺は、長野県飯田市久米に位置する真言宗智山派の名刹で、山号を円行山(えんぎょうざん)と称します。本尊には観音菩薩を祀り、古くから安産や子授けの祈願寺として人々の信仰を集めてきました。静かな山あいに佇むこの寺は、歴史の深さと厳かな雰囲気が調和した、心落ち着く霊場です。

創建の由来と歴史

光明寺の創建は、奈良時代の養老年間(717年~723年)に遡ります。名僧・行基が諸国を巡る中でこの地を訪れ、「仏道を広めるにふさわしい場所」と感じたことから、光明皇后の安産祈願のために千手観音像を安置したのが始まりと伝わります。その後、行基の奏上により天平13年(741年)、勅使・佐伯常人がこの地を訪れ、国守の命で七堂伽藍と十二院坊を建立したとされています。これが光明寺の起源とされる由緒ある物語です。

真言宗への改宗と中世の繁栄

創建当初は法相宗の寺院でしたが、第六代住職の代に弘法大師・空海の弟子である真然僧正が住職となり、真言宗へと改宗しました。平安時代の保延6年(1140年)には、「奉造立保延六年庚申三月三日」と記された墨書銘をもつ薬師如来像が造立されており、当時から多くの信徒に崇敬されていたことがうかがえます。

また、和歌山県那智町で発見された銅製経筒には、「信濃国伊那郡伊賀覧御庄 中村郷光明寺」との銘が刻まれており、平安時代から光明寺が仏教文化の中心として栄えていたことを示しています。

戦乱と復興の歴史

鎌倉時代には住僧・憲深が境内上段に六所権現を創建し、寺の鎮守神として祀りました。南北朝時代には松尾城主・小笠原貞宗の弟である貞長が久米ヶ城を築き、光明寺を祈願寺と定め、一帯を寄進したことで寺勢は大いに隆盛しました。しかし、室町中期には戦乱により荒廃を余儀なくされました。

その後、江戸時代の慶長6年(1601年)に徳川家康の家臣である伊那郡代官・朝日受永から寺領の寄進を受け、再び繁栄への道を歩み始めます。さらに慶安2年(1649年)には京都仁和寺一品親王より、ご紋付の両部大日如来像を贈られるなど、格式ある寺院としての地位を確立しました。

文化財と本尊の変遷

江戸時代の元禄3年(1690年)には薬師堂が再建され、彩色を施した薬師如来像が安置されました。行基が安置した千手観音像は時の経過により損傷しましたが、延享年間に修復が施され、宝暦3年(1752年)より再び観音菩薩を本尊として祀るようになりました。これにより、創建当初の姿に戻ったとされています。

また、光明寺には貴重な文化財が多く伝わっています。阿弥陀如来坐像は平安時代後期の作とされ、昭和24年(1949年)に国の重要文化財に指定されました。さらに、薬師如来坐像は像内から保延6年(1140年)の墨書が発見され、同年に国の重要美術品に指定されています。

境内の見どころ

境内には明治15年(1882年)に再建された本堂をはじめ、元禄3年(1690年)再建の薬師堂、宝永4年(1707年)再建の六所権現社殿など、多くの歴史的建造物が点在しています。山門は明治元年(1868年)に竹佐陣屋の表門を移築したもので、当時の風格を今に伝えています。

四季折々に異なる表情を見せる境内は、春には桜、秋には紅葉が美しく、訪れる人の心を穏やかにしてくれます。古刹ならではの静寂と格式を兼ね備えた景観が広がり、心を落ち着けて参拝できる場所です。

交通アクセス

光明寺へは、JR飯田線鼎(かなえ)駅から車で約10分、または中央自動車道飯田インターチェンジから車で約8分ほどで到着します。アクセスの良さも魅力で、観光と信仰の双方から多くの人々に親しまれている寺院です。

おわりに

奈良時代に行基が開いたと伝わる光明寺は、千年以上にわたり地域とともに歩み続けてきた信仰の地です。歴史ある建造物や文化財に囲まれながら、静寂の中で祈りを捧げる時間は、現代に生きる私たちにも深い癒やしを与えてくれます。飯田市を訪れた際には、ぜひ立ち寄りたい心のふるさとです。

Information

名称
光明寺(飯田市)
(こうみょうじ)

阿智村・飯田

長野県