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軽井沢

(かるいざわ)

軽井沢の魅力と広がり

軽井沢とは

軽井沢(かるいざわ)は、長野県の東信地方、佐久地域に位置する地名であり、特に避暑地・別荘地として日本国内外で広く知られている高原リゾート地です。狭義には北佐久郡軽井沢町、特に旧軽井沢地区を指しますが、広義にはその周辺地域も含まれます。たとえば、長野県の御代田町(西軽井沢)や、群馬県の長野原町・嬬恋村(北軽井沢・奥軽井沢)、さらに安中市(東軽井沢)なども含まれることがあります。

軽井沢という地名の語源

「軽井沢」という地名の語源には諸説が存在します。一説には、古語で荷物を背負って運ぶことを「かるう」と言い、これに由来して峠道に沿った谷を表現したとされます。他には「枯井沢(水の枯れた沢)」から転じたという説、「凍り沢(こおりさわ)」、あるいは火山由来の「軽石沢(軽石によってできた沢)」から変化したとする説もあります。

また、現在は「かるいざわ」と発音されますが、かつては「かるいさわ」と呼ばれていました。外国人避暑客が多く訪れるようになった明治時代以降、彼らにとって発音しやすい「かるいざわ」という呼び方が一般化し、現在に至ります。

軽井沢の地理と自然

火山によって形成された土地

軽井沢は、浅間山の南麓に広がる高原地帯です。この地域は火山活動によって形成された地形が特徴で、約24000年前の黒斑山の山体崩壊によって生じた泥流が、現在の南軽井沢一帯に湖を作り出しました。その後、約2万年前に火砕流が発生し、湖を覆い尽くすように堆積。こうして現在の軽井沢の平坦な地形が誕生しました。

この経緯から、軽井沢一帯の土壌は軽石で構成されており、「軽石沢」説の根拠ともなっています。また、地形の変動により数多くの沢や丘が生まれ、現在の起伏に富んだ美しい景観が生まれました。

軽井沢の歴史

古代から続く人の営み

軽井沢には縄文時代からの人類の痕跡があり、各地で遺跡が発見されています。特に「茂沢南石堂遺跡」ではストーンサークルや竪穴住居跡などが確認され、北関東との交流があったことを示しています。群馬県との境に鎮座する「熊野皇大神社」もこの時代の信仰を今に伝えており、社伝によると創建は景行天皇の時代(110年)とされています。

古代の交通要所として

軽井沢は、古くから交通の要衝でもありました。平安時代には馬の放牧地として使われ、官牧「長倉の牧」が存在していました。また、古代の官道「東山道」がこの地を通っていたとされ、現在の碓氷バイパスに相当するルートが有力です。

戦国時代から江戸時代へ

中世・戦国期には碓氷峠が信州と関東を結ぶ軍事的な要地となり、戦いの舞台となりました。江戸時代に入ると、五街道の一つ「中山道」が通る宿場町として、軽井沢宿・沓掛宿・追分宿(通称「浅間三宿」)が繁栄しました。旅人の往来は盛んで、飯盛女も多数いたとされるなど、宿場町としての賑わいがうかがえます。

外国人による避暑地としての発展

アレクサンダー・クロフト・ショーの訪問

明治時代に入ると、参勤交代の廃止や交通の変化により全国の宿場町は衰退しました。軽井沢も同様に一度は廃れてしまいますが、1885年(明治18年)、カナダ人宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーが東京の暑さを逃れてこの地を訪れたことが転機となりました。

彼は軽井沢の自然環境を高く評価し、「屋根のない病院」と称し、その後も何度も訪問。保健休養地としての評価を確立しました。彼の勧めにより、多くの外国人が軽井沢を訪れ、外国人避暑地・別荘地としての軽井沢の発展が始まりました。

日本初の別荘とショーハウス記念館

1888年(明治21年)、ショーは現在の旧軽井沢エリアに軽井沢初の別荘を建設しました。これがきっかけとなり、軽井沢は保養地としての地位を確立。現在でもその別荘は復元保存されており、ショーハウス記念館として一般公開されています。

このように、軽井沢は火山地形と古代からの人々の営み、江戸時代の宿場文化、そして明治以降の避暑地としての発展という、多様な歴史と文化が融合した魅力的な観光地なのです。

鉄道の到来と「新軽井沢」の誕生

天然氷製造の始まりと水神碑

1886年、氷職人・泉喜太郎が軽井沢で天然氷の製造を開始しました。その後も現在まで『渡辺商会』が継承し、全国6か所しかない天然氷製造元の一つとして名を連ねています。1948年(昭和23年)には、碓氷川水源近くに泉喜太郎らの功績を讃える「水神の碑」が建立され、揮毫は当時の内閣総理大臣・尾崎行雄の手によるものです。

碓氷馬車鉄道からアプト式鉄道へ

1888年(明治21年)9月には、官設鉄道・横川駅と軽井沢駅を結ぶ碓氷馬車鉄道が開通。同年12月には信越本線が上田駅から軽井沢駅まで延伸し、軽井沢駅が開業しました。さらに1893年(明治26年)には急勾配の碓氷峠を越えるため、アプト式ラックレールを採用した官設鉄道碓氷線が開通し、上野駅と直結。これにより軽井沢駅周辺が交通の中心として栄え、旧街道沿いを「旧軽井沢」、駅周辺を「新軽井沢」と呼び分けるようになりました。

洋式ホテルと別荘文化の芽生え

亀屋ホテル(万平ホテル)の創業

旧軽井沢の旅籠「亀屋旅館」は江戸時代後期に開業しましたが、宿場の衰退で一時休業を余儀なくされました。そこで初代・佐藤万平がディクソン夫妻から洋食文化や西洋の生活習慣を学び、1894年(明治27年)に軽井沢初の洋式ホテル「亀屋ホテル」(後の万平ホテル)を創業しました。その後1899年には「軽井沢ホテル」、1906年には「三笠ホテル」が開業し、宣教師や知識人、文化人の間で評判となり、日本三大外国人避暑地の一つに数えられるようになりました。

貸別荘とキリスト教会建築

1900年代に入ると別荘やホテルが相次いで増加し、旧軽井沢メインストリートには外国人向けの商店や夏季出店が立ち並びました。カナダ人宣教師ショーの影響もあり宣教師が多く訪れ、キリスト教色が濃い保養地となります。米国人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の軽井沢ユニオンチャーチ(1918年)や日本基督教団軽井沢教会(1929年)など、当時の教会建築が各地に現存し、ショーハウス記念館やテニスコートクラブハウス、医師邸など多彩な建築を手掛けたヴォーリズの足跡が今も残ります。

日本人の参入と別荘地の拡大

八田裕二郎の別荘と軽井沢避暑団

鉄道開通前は日本人の別荘は皆無でしたが、海軍大佐・八田裕二郎が碓氷峠を越えて軽井沢を訪れ、地元の気候と外国人との交流に魅せられて1893年(明治26年)に旧軽井沢に初の日本人別荘「八田別荘」を建設。その後、八田は日本人への避暑地としての軽井沢紹介を精力的に行い、1916年(大正5年)にはダニエル・ノルマンらと「財団法人軽井沢避暑団」を設立(後の「財団法人軽井沢会」)し、転地療養所(マンロー病院の前身)を開設して結核患者の療養を支援しました。

大手資本による別荘地開発

大正期以降、西武資本・東急資本をはじめ三井・丸紅・鹿島建設など大手不動産が次々と参入。草軽電気鉄道の敷設、小瀬温泉・北軽井沢への延伸、雲場池の造成と「野沢原」開発、南軽井沢の「レイクニュータウン」造成(1964年〜)など、別荘地・レジャー施設・ホテル・ゴルフ場・競馬場・飛行場(後にゴルフ場)を含む総合的なリゾート開発が進みました。

戦後の別荘ブームと現代の軽井沢

戦後復興と国際観光都市指定

1951年(昭和26年)、軽井沢町は「国際親善文化観光都市」に指定され、国の支援の下でリゾート開発が続行。1955年には御代田町にウイスキー蒸溜所が設置され、ブランド「軽井沢」が誕生(2000年製造中止、現在は“幻のウイスキー”)。また西武グループによるスケートセンターやゴルフ場の開業など、多彩な施設が整備されました。

バブル期以降の充実と禁民泊条例

1980〜90年代のバブル期には、ショーハウス記念館(1986年)、旧三笠ホテル(1983年)の公開、美術館・文学館の開館、「軽井沢・プリンスショッピングプラザ」(1995年)など観光施設が充実。2014年には全寮制インターナショナルスクール「ISAKジャパン」が開校し国際色を強めました。一方で2016年以降、町は民泊やカプセルホテルを全面禁止する厳格な条例を制定し、良好な別荘環境と風俗の維持を図っています。

現代の軽井沢──持続するリゾート経済

現在、軽井沢町の産業は不動産・サービス・建設業が全体の8割超を占め、その大半が別荘・リゾート観光に関連しています。首都圏からのアクセスも北陸新幹線や自動車道の整備で一層向上し、年間を通じた観光・買物客で賑わう一方、過度な商業化を抑制する条例下で良好な別荘環境を守り続けています。多様な文化・歴史を抱えた軽井沢は、今後も「日本を代表するリゾート地」としてその魅力を発信し続けることでしょう。

Information

名称
軽井沢
(かるいざわ)

軽井沢・御代田

長野県