新海三社神社は、長野県佐久市田口宮代に鎮座する格式ある神社で、通称「新海神社」とも呼ばれています。古くは佐久郡の総社として広く信仰を集めており、近世には旧県社にも列せられました。神社の御神紋は「梶の葉」で、古代の風雅を今に伝える意匠です。
新海三社神社の主祭神は興波岐命(おきはぎのみこと)で、出雲神話で知られる大国主大神の孫神にあたります。興波岐命の父神は信州・諏訪の建御名方命、母神は上野国の貫前女神(ぬきさきめがみ)、すなわち荒船大明神とされています。
このように、出雲・諏訪・上野といった各地の神格を引き継ぐ神を祀ることから、神社の歴史的・宗教的意義の深さがうかがえます。興波岐命は佐久地方の開拓神とされ、地域の発展と守護に深く関与してきたと伝えられています。
神社の境内および周辺には、「四十八塚」と呼ばれる古墳群が点在しており、これらは古代信仰の痕跡であると考えられています。古墳時代にすでにこの地が神聖視されていたことを物語っており、新海三社神社の起源が古代にさかのぼることを示す重要な証左となっています。
南北朝時代に記された『諏方大明神画詞』では、新海三社神社は「新開之神(にいさくのかみ)」として登場し、早くから神格の高い存在として認識されていたことがわかります。神社は「佐久神社」や「開神社」とも呼ばれ、いずれも佐久地域の祖神としての尊崇を反映しています。
戦国時代には、武田信玄が戦勝祈願のために訪れた記録が残されており、その際には太刀一振りを奉納し、社殿の修復も行ったと伝えられています。信玄が記した願文も現存し、その篤い信仰心が今に伝えられています。
江戸時代には、佐久地域に式内社が含まれていないことが問題視され、この新海三社神社こそが式内社であるべきとの主張が起こりました。これにより、神社の格式や歴史的評価が再び注目を集め、地域における信仰の中心としての地位をより強固なものとしました。
明治初期の神仏分離政策の影響を受け、新海三社神社にあった三重塔(神宮密寺の建造物)も取り壊される危機に見舞われました。しかし、神社側が「これは仏塔ではなく宝庫である」と訴えた結果、取り壊しを免れ、現在も室町時代建立の三重塔が境内にそびえています。
かつては「御神幸(みゆき)」と呼ばれる大神事が行われており、神職が乗馬して佐久全域から小県郡にかけての広範囲を巡行する神事が執り行われていました。この際の巡行路は「新海道」と呼ばれ、地域の人々に深く親しまれていました。
神社の境内には、絹笠神社や福田稲荷神社、その他東末社12社・西末社12社を合祀した合殿があり、信仰の厚さを物語ります。鳥居の横にはかつて樹齢1000年とも言われた欅の大木がそびえ、参拝者を見守っていました。
境内の東本殿前から約20メートルの場所には、壮大な御神木の杉が立っています。1940年時点で高さ30メートル、根元の直径は12メートルにも及びました。明治時代の火災では一部が延焼したものの、氏子総出で消火に努め、後には林学博士・本多静六の指導のもと、傾きを補強する工事も行われました。
神社裏には「由池(よしいけ)」と呼ばれる神秘的な池があり、古くは僧が蛇のお告げによりこの池を見出したとされています。この池の水で墨をすり、梵字を書いたところ、三十六枚下の紙にまで墨が浸透したとの逸話があり、これがきっかけで「御神符祭」が始まりました。
また、夜に神職が白覆面姿で水を汲みに行く姿を見た者は不幸になるという伝承があり、地元の人々はそれを恐れて早く就寝するようになったという話も残されています。
新海三社神社は、佐久地域の歴史・文化・信仰が凝縮された古社であり、神話や武家、そして近代の宗教史に至るまで、多くの物語を秘めています。文化財としても高い価値を誇り、古代から現代へと続く人々の祈りの場所であり続けています。
佐久市を訪れる際は、ぜひこの由緒ある神社に足を運び、静謐な空間の中で歴史の息吹と神々の存在を感じてみてください。