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松本城

(まつもとじょう)

国宝・五重天守の漆黒の城

北アルプスの麓にそびえる国宝の名城

松本城は、長野県松本市に位置する日本を代表する近世城郭の一つです。かつては深志城(ふかしじょう)と呼ばれ、戦国時代から江戸時代初期にかけて信濃国の政治・軍事の要として重要な役割を担ってきました。現在も五重六階の天守を中心に、当時の姿を色濃く残す城として、国内外から多くの観光客を集めています。

国宝に指定された現存天守

松本城の最大の特徴は、現存する五重六階の天守として日本最古と考えられている点です。天守は安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて築かれ、現在まで当初の姿をほぼ保ったまま残されています。その価値は極めて高く、姫路城・犬山城・彦根城・松江城と並ぶ「国宝五城」の一つとして、1952年(昭和27年)に国宝指定を受けました。

また、城跡全体も国の史跡に指定されており、建築史・城郭史の両面から高く評価されています。黒漆塗りの下見板で覆われた天守は、白壁が印象的な姫路城とは対照的で、「烏城(からすじょう)」の愛称でも親しまれています。

深志城から松本城へ――戦国の動乱と城の誕生

戦国時代の築城

松本城の歴史は、戦国時代の永正年間(1504~1520年)にさかのぼります。信濃守護であった小笠原氏が林城を本拠とし、その支城の一つとして築いたのが深志城でした。当時の深志城は、松本盆地を見渡す要衝に位置し、周囲の防衛拠点として重要な役割を果たしていました。

武田氏の侵攻と支配

天文年間に入ると、甲斐国の戦国大名武田信玄による信濃侵攻が本格化します。1550年、林城・深志城は相次いで落城し、小笠原長時は信濃を追われました。武田氏は林城を破却し、深志城を松本盆地支配の拠点として整備。城代には名将・馬場信春が置かれ、信濃経営の重要な拠点となりました。

本能寺の変と松本城への改名

1582年、織田信長の死を招いた本能寺の変により、武田氏は滅亡します。その混乱の中で旧小笠原家臣の支援を受けた小笠原貞慶が深志城を奪還し、城名を松本城と改めました。これが現在の松本城の名称の始まりです。

近世城郭としての完成――石川氏の時代

1590年、豊臣秀吉の天下統一に伴い徳川家康が関東へ移封されると、松本城主であった小笠原秀政も家康に従って下総国へ移ります。その後、代わって入城したのが石川数正・康長父子でした。

石川父子は、天守の築造をはじめ、城郭と城下町の大規模な整備を行い、松本城を本格的な近世城郭へと発展させました。特に天守の建設は、徳川家康に対する軍事的な牽制の意味を持っていたともいわれています。

江戸時代の松本城と城下町

江戸時代に入ると、松本城は松本藩の藩庁として機能しました。石川氏改易後は再び小笠原氏が入り、その後は松平氏、水野氏を経て、戸田松平家が代々城主を務めます。城下町は碁盤目状に整備され、商業と文化の中心として発展していきました。

貞享騒動と城を囲んだ農民たち

1686年(貞享3年)には、重税と凶作に苦しむ農民たちによる貞享騒動(加助騒動)が起こります。指導者の多田加助らは命を懸けて直訴しましたが、最終的には厳しい処罰を受けました。この出来事は、松本城が単なる権力の象徴ではなく、民衆の歴史とも深く結びついていることを物語っています。

明治維新と解体の危機

明治維新後、多くの城が廃城となる中、松本城も例外ではありませんでした。1872年(明治5年)、天守は競売にかけられ、解体される危機に瀕します。しかし、地元有志である市川量造らの尽力によって買い戻され、城は奇跡的に保存されました。

明治・昭和の大修理

明治末期には天守の大きな傾きが問題となり、1903年から1913年にかけて明治の大修理が行われました。さらに戦後には、国宝保存事業の第1号として1950年から1955年にかけて昭和の大修理が実施され、現在の美しい姿が保たれています。

松本城の構造と見どころ

日本唯一の平城天守

松本城は現存12天守の中で唯一の平城です。本丸・二の丸・三の丸が水堀によって区切られ、平地に築かれた城郭として独特の景観を生み出しています。

複合連結式天守

大天守を中心に、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓が連結された複合連結式天守は、松本城ならではの特徴です。特に月見櫓は、将軍を迎えるために建てられた優美な建物で、赤い欄干が風雅な雰囲気を演出しています。

防御と機能美を兼ね備えた名城

平城ならではの水堀構造

松本城は、山や丘を利用しない平城として築かれている点が大きな特徴です。その防御力を補うため、城の周囲には複数の水堀が巡らされました。本丸・二の丸・三の丸はそれぞれ水堀によって区画され、敵の侵入を困難にする構造となっています。

特に本丸を囲む内堀は幅が広く、水量も豊富で、平地に築かれた城とは思えない堅固さを誇ります。これらの水堀は、防御機能だけでなく、城の威容を際立たせる景観的な役割も果たしています。

石垣と土塁の使い分け

松本城では、場所によって石垣と土塁を巧みに使い分けています。天守周辺の要所には石垣が用いられ、一方で二の丸・三の丸など広い範囲には土塁が多く残されています。

石垣は比較的低く抑えられていますが、これは水堀と組み合わせることで十分な防御力を確保するためでした。実用性を重視したこの構造は、戦国末期から近世初頭にかけての城郭技術の特徴をよく示しています。

複合連結式天守の防御構造

松本城の天守は、大天守を中心に複数の小天守や櫓が連結された複合連結式天守です。建物同士は渡櫓によって結ばれ、内部を移動しながら防衛できる構造になっています。

敵が侵入した場合でも、一気に天守最上階まで到達できないよう、通路は複雑に折れ曲がり、階段は急で狭く設計されています。これは、少人数でも効率的に防御できるよう工夫された戦闘的構造です。

鉄砲戦を意識した狭間と石落とし

天守や櫓の壁面には、狭間(さま)と呼ばれる小さな開口部が多数設けられています。松本城では、弓用の縦長の狭間だけでなく、鉄砲用の丸狭間も多く確認でき、鉄砲戦を前提とした城であることが分かります。

また、天守の出入口付近には石落としが設けられ、城壁の真下に迫る敵を上から攻撃できるようになっています。これらの設備は、松本城が実戦を強く意識して築かれた城であることを物語っています。

内部構造に見る戦と居住の両立

天守内部は、下層階ほど天井が低く、柱や梁が密に配置され、武器や兵糧を保管する軍事的空間としての性格が強く表れています。一方、上層階になるにつれて開放的な造りとなり、周囲を見渡せる構造へと変化します。

このように、松本城の天守は戦闘・防御・象徴性を兼ね備えた多機能建築であり、近世城郭の完成形の一つと評価されています。

最新調査で判明した天守の築造年代

2025年に実施された年輪年代調査により、大天守の主要部材が1596年頃に伐採されたことが明らかになりました。これにより、天守の建築年は1596~1597年頃と特定され、従来の諸説に決着がつきつつあります。この成果は、日本の城郭建築史においても重要な意味を持っています。

文化財としての松本城

国宝・史跡

松本城は、大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の五棟が国宝に指定され、城跡全体が国史跡として保護されています。単なる観光名所ではなく、日本文化を今に伝える貴重な遺産です。

観光情報とアクセス

松本城は松本駅から徒歩圏内にあり、アクセスも良好です。四季折々に表情を変える天守と北アルプスの眺望は、訪れる人々に深い感動を与えます。

松本城公園と四季折々の風景

松本城の周囲には、本丸庭園を含む都市公園が整備されており、年間を通じてさまざまなイベントが開催されています。公園内では四季折々の美しい風景を楽しむことができ、春には満開の桜、初夏には藤の花が咲き誇り、夏には涼しげな濠の風景、秋には紅葉、そして冬には雪に覆われた北アルプスの峰々とともに、豊かな自然を堪能することができます。

松本城が語りかけるもの

松本城は、戦国の動乱、江戸の泰平、明治の近代化、そして現代へと続く長い歴史を静かに見守ってきました。市民の情熱によって幾度となく存続の危機を乗り越えてきたこの城は、松本の象徴であり、日本の誇りでもあります。訪れる人は、ただ美しい城を見るだけでなく、その背後にある人々の思いや歴史の重みを感じ取ることができるでしょう。

Information

名称
松本城
(まつもとじょう)
リンク
公式サイト
住所
長野県松本市丸の内4番1号
電話番号
0263-32-2902
営業時間

8:30~17:00(最終入場は16:30まで)

定休日

年末(12月29日から31日)

料金

天守と本丸庭園
大人 700円
小人 300円

駐車場

普通車110台 大型車24台

アクセス

JR篠ノ井線・大糸線、アルピコ交通上高地線 松本駅(東口(お城口))から徒歩で約20分

JR大糸線 北松本駅(東口(お城口))から徒歩で約7分

バス:
松本駅バス停から、松本電鉄バスタウンスニーカー北コースで約10分、「松本城黒門」バス停下車

松本バスターミナルから、松本電鉄バス浅間温泉行きなどで約10分、「大名町」バス停下車

自動車:
松本インターチェンジから車で15分

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